9-3.
***
手榴弾を投げた直後、『殿下』は窓際へ逃げた。
そして予想通り、窓は爆発の威力で割れた。
体は、爆風に吹き飛ばされ、窓ガラスと一緒に地面へ落下する。
まるで、アクション映画で見たようなシーンだ。
実際やってみると、とんでもなく負担が大きい。
頭は守ったものの、左足を地面へしたたかに打ちつけ、猛烈な痛みが襲ってくる。
痛みに呻きながら、手を伸ばす。芝生に指を食い込ませ、必死に体を引きずる。
『殿下』はガレージに向かおうとした。
ガレージに停まっている車まで、どうにかして辿り着こうとしていたのだ。
車にさえ乗れば、もっと早く逃げられる。
早く。とにかく早く。
――梟と、あのイタリア人に見つかる前に。
ガレージの手前、何者かの足が見えた。
梟か、あのイタリア人か、と忌々しそうに『殿下』は顔を上げた。
そこにいた人物を見て、さらに険しい表情になる。
夜空より黒い瞳。さらさらと靡く黒髪。
「こんばんは、『殿下』」
右肩が血まみれのアジア人の女――ボス・ヴェントーラから、ミチルという名前だと聞いた。
「せっかくのパーティーへお招きいただいたのに、遅くなって申し訳ございません」
申し訳なさそうに笑いながら、みちるは左手の
「……クソ女め」
呪いを込めるように、みちるに向かって吐き捨てた。
「あんたが今までさんざん利用してきた、女っていう生き物に殺されそうな今のお気持ち、教えてくださいな」
みちるはその場に屈む。
それでもお互いの視線の高さは合わず、『殿下』は見下ろされている。
こんな状況でなければ、一番悪質な方法で痛めつけてやったと言うのに、と『殿下』は唇を噛んだ。
みちるは、銃口を『殿下』の額の真ん中に突きつける。
『殿下』の目が見開かれた。
その反応を見たみちるは、満足げに微笑む。
『皮肉屋で、肝の据わった怖いもの知らずの女』
ボス・ヴェントーラがみちるを評した言葉だ。それを今、『殿下』は思い出していた。
「私がいなくなったら、この街がどうなるのか、わかっているのか!」
顔を真っ赤にした『殿下』は、声を荒げる。
大声を上げて、梟やアニエロに生存がわかってしまっても、構わなかったのだ。
「ごめんね」
『殿下』が怒りを露わにしても、みちるは眉一つ動かさない。
ただ真っ直ぐな眼差しで、見下ろしている。
「私、観光客だから、そんな先々のことなんか、気にしてない」
それは、『殿下』からすれば、これ以上ない屈辱的な言い分だった。
長年積み上げてきたすべてを、「自称・観光客」にぶち壊されるという結末など、信じたくなかった。
「廃墟団地のクズどもを、誰が面倒見るんだ? イタリアのマフィアか? あいつらにこの国の現実は見えていない! 私が廃墟団地のクズどもに、どれだけ恵んでやったと」
『殿下』の手が、みちるの拳銃を握る手を掴む。
「最近じゃ、廃墟団地に近づく移民やホームレスが減ったらしいね。……ちょっと派手に、やりすぎたんじゃない?」
みちるは哀れむような顔で、『殿下』の顔を覗き込む。
『殿下』は歯を食いしばり、みちるの拳銃を持つ手を振り払おうとしたが、ビクともしない。
「あんたも下手な喧嘩売らなきゃ、もうちょっと商売できたのに」
みちるの声音は、落ち着いていた。
そして話している途中で、迷いなく引き金を引いた。
『殿下』の体は、着弾した瞬間、一度跳ね、地面に突っ伏した。
それを見つめる黒い瞳は、容赦ないほど真っ直ぐだ。
パチパチ、と音がする。
何の音かとみちるが顔を向けると、さっき爆発した部屋から出た火が、隣の部屋に引火しているのが見えた。
「……サバちゃんのところへ行かないと」
みちるは動かなくなった『殿下』を冷たい眼で見下ろして呟く。
梟のもとへ行こうと立ち上がったが、足がもつれ、体がゆっくりと傾いでいく。体がふわふわしているような感覚は、立ち上がるのを諦めるには十分だった。
芝生の上で仰向けになって見た空は、東から徐々に夜闇の色が薄くなっていた。
いよいよ昇ろうとしている太陽から漏れる光に負けじと、星がいくつも輝いている。
みちるは深く息をついてから、起き上がろうとするが、腕に力が入らなかった。
ここが
地面に近い位置にいると、誰かの靴が芝生を踏むのが聞き取れた。
大股で、駆け寄ってくる足音。
気配を隠しもしない。――普段なら、そんなことは絶対しないというのに。
みちるは視線だけを動かし、その靴音の主を見る。
わずかに嗅ぎ取った煙草の残り香に、少し安心したのか、口元が小さく笑う。
その瞬間に、意識が途切れた。
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