6. Stop and smell the roses

6-1.


 

 非常階段に座るアニエロは、不意に上を見上げた。

 ちょうど誰かが降りてくるところだった。

 ――また誰かに飛び蹴りでも喰らわされたらたまったものじゃない。

 そう思って構えたが、すぐに力を抜く。


「どうした?」

 アニエロは、降りてくるその人影に、柔らかい声音で声をかける。

 ゆっくりとステップを降りるのは、タオルケットを全身に巻き付けた少女だ。

 

 少女は何も答えず、アニエロの隣に腰掛けた。

 それに驚いたアニエロは、目を丸くして、タオルケットを頭からすっぽりと被った少女を、まじまじと見つめる。

 

「……まぁ、あんな騒ぎがあった後だしな。一人でいるくらいなら、俺みたいなのとでも、いた方がマシか」

 アニエロは、この少女へみちるに手榴弾を渡す役目を頼んで、それきり二階へ置き去りにしていた。 

 それを、いまさら思い出していた。

 

「さっきはありがとうな。俺が前に出ると、何かと問題多くてさ」

「……だい、じょうぶ」

 アニエロが穏やかに話しかけると、少女は時間をかけながら、言葉を発する。

 少女の手が、アニエロの前へ差し出される。何かと思えば、掌にカラフルな包装の一口サイズのチョコレートが何個も乗っている。

 

「チョコレート、持ってきてくれたのか。ありがとう」

 少女の掌から一個、受け取ったアニエロはすぐに包装を剥いで口に入れる。

 

「名前は? ……あぁ、答えたくなかったら言わなくていい」

 アニエロは少女に尋ねる。少女から歩み寄ってくれたのは、これが初めてで、うれしくなっていたのだ。

 それを自覚して、言葉の最後は、少し遠慮を挟み込む。

 

「……アンゲリカ」

 掌のチョコレートを握りながら、少女――アンゲリカは、か細い声で答えた。

 それでも、ソファの上で震えて縮こまっていた時よりは、今の方が少し落ち着いているように見えた。

 

「おぉ、アンゲリカ。イタリアだとアンジェリカって呼ぶやつだ。俺の母さんと一緒」

 アニエロはふふ、と笑い声を漏らす。

 

「……お母さん、優しい?」

「んー……いや全然。滅多に家に帰ってこなくて、帰ってきたと思えば、いつも違う男を連れ込んできた。だから、実は大嫌いだ」

 アニエロは一瞬、言い淀む。

 せっかく和らいだ空気を、また緊張感のあるものにしてしまいそうで、嘘でもつこうと思った。

 だが、口から出たのは、母への本心だった。

 案の定、アンゲリカは、少し怯えた眼をしてアニエロを見た。

 

「こんなこと聞かされても困るよな……。それでも俺たち、クソみたいな世界で生きていかなきゃならないわけだよ」

 困ったもんだね、と呟き、アニエロは着地点のない会話を悔やんでいた。

 

「……アニエロ、と、ミチル、どっちを信じたらいい?」

 アンゲリカは、タオルケットの合間から瞳を覗かせて、アニエロの青い眼を見つめる。

 どういう状況なのか知らされていないまま、みちるを信じるべきか、アニエロを信じるべきか、戸惑っている。

 

「……それを決めるのは、俺じゃなくてアンゲリカだ」

 そう言って、アニエロはアンゲリカに微笑みかける。

 

「それで、後から間違ったなって思っても、その時の自分が信じたものは、誇っていい」

 アニエロが本当に言いたいことは、厳密には違う。

 

 後から振り返れば、間違っていたとしても、今した判断を突き進むしか、道がない。


 

 アンゲリカは潤んだ榛色ヘーゼルの瞳でアニエロを見つめる。

 自分を見透かされているようで、アニエロは思わず眼を逸らした。


「私は、どっちも、信じて、いい?」

 アンゲリカはぼそりと呟くように言う。

 

「……もちろん」

 アンゲリカの問いに、アニエロは髪についた消火器の粉を払いながら、軽く笑った。

 髪を触っていると、地下室のドアがアニエロの視界に入る。

 重厚な鉄のドア。その向こうにいるのは、従業員の女たちと、みちると梟。


 

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