5-5.
*
アニエロのビルの地下室。そこへは、ビル内部の非常階段を使って入ることができる。
跡形がないレベルで破壊された一階を、溜め息混じりに、消火器の粉塗れのアニエロは掃除していた。
その間にも、追っ手と思しき連中が、何度もアニエロへ二人の行方を尋ねにくるので、片付け作業は一向に捗らない。
アニエロは、このあたり一帯、もしくはこの店の周辺の安全だけでも確保できてから、地下室に避難させた従業員の女たちを呼び戻そうと思っていた。
態度の悪い連中が店周辺からいなくなったのを見計らって、アニエロは地下室への階段を下りていく。
歩くたびに、消火器の粉が落ちていくのを見たアニエロは、シャワーを浴びるのが先だったかもしれない、とぼんやり思った。
地下室のドアは重厚な鉄製だ。ロックは中から出ないと開けられない。
アニエロはドア横のインターフォンを押し、中にいる女に開けてもらおうとしていた。
『
インターフォンに出た女の声を聞いた瞬間、アニエロは真っ青になって悲鳴を上げた。
「おいおいおいおい、なんであんたが」
アニエロの声は震えている。ドアノブに手をかけ、開けようとするが、もちろんびくともしない。
『なんでって、立てこもり中だから。今、みなさんとアニエロの愚痴で盛り上がってるところ! うぇーい!』
このドアの向こうでインターフォン越しに喋っているのは、みちるだった。
そしてその後ろでは、パーティーでもやっているかのような音楽と、女たちの歓声が聞こえている。
とても楽しそうな会になっているのは、間違いない。
「うぅわ……女たちを人質に取るとは聞いてないし、みんなと盛り上がってるなんて、予想外なんだけど」
アニエロは頭を抱え、眉間に皺を寄せる。
地下室は、有事の際のシェルター機能がある。一週間程度の備蓄があり、多少の不自由はあれど立てこもるには十分だ。
「さっきは裏切って悪かったって。よりによってうちのビルで、とか勘弁してよ……」
ヴェントーラ
『殿下』にこのことがバレたら、ビルごと破壊されかねない。
そして、その落とし前をアニエロがつける目に遭う。みちるがここにいると、アニエロは何も得しないのだ。
『ボス・ヴェントーラにはーっもう連絡したのかなっ?』
みちるはバックで流れる音楽のリズムに合わせて、用件を言う。やたらと陽気なのは、修羅場をくぐったばかりで、アドレナリンが出ているからだろう。
「あ? あぁ、武器送れってやつ? もうしたけど?」
みちるが『殿下』が待つ部屋に向かう直前、たしかにそう言い付けられた。『殿下』からの懸賞金の話が出る直前に、アニエロは本国のボスへ連絡していた。
『じゃ、それが届いたら、みなさんを解放するねー!』
みちるが言う「みなさん」とは、地下室に避難させた従業員の女たちだ。
『みんなー! それまで店は休みだけど、給料はアニエロがちゃんと補償するってー!』
それを聞いたみちるの背後からは、大歓声が上がった。女たちもみちる同様、ノリがいい。
「は⁈ 冗談じゃね」
みなまで言う前に、何かの影がアニエロの眼前をよぎった。途端、ぐわん、と脳が揺れた。
一秒遅れて、顔面に強烈な痛みを感じたのと同時に、壁に押し付けられた感触がした。
アニエロが自分の身に何が起きたか理解したのは、自分の頬を、履き潰した靴が踏み躙っているのが見えた時だ。
自分の頭と半身は、壁に追いやられている。
「や、やめて……痛いから」
アニエロは自分の頬をぐにぐにと踏み続ける足に、そっと手を伸ばす。
相手はどこから現れたのだろうか、と思ったが、階段の上、おそらく一階フロアから飛び蹴りをしてきたのだろう。
でないと、ここまでの衝撃は与えられないはずだ。
「目先の利益に走った結果、かえって損をしたな。馬鹿め」
血走った灰色の眼が、アニエロを殺す勢いで睨んでいる。表情には怒りなど滲み出ていないのに、眼だけで怒りが伝わってくるのだ。
「ちょ、あの、謝るから、うちの女たちは怪我させないで」
アニエロは、自分の顔を踏む梟の足を退かそうとするが、まったく歯が立たない。それどころか、もう片方の足で腹に蹴りを入れられ、肺の空気が一気に吐き出された。
「俺が腹を立てているのは、お前と『殿下』だけだ」
息をしようと必死になっているアニエロを、梟は冷たく見下ろしている。
「『殿下』へ、俺たちがここにいることを喋ってみろ。人質は容赦なく殺すからな」
梟はアニエロと目線を合わせるために屈み込むと、手にしていた拳銃を額に突き付けた。
「わかった、わかったってば」
アニエロが自分の次に案じているのは、店の従業員である女たちだ。それは、今までのアニエロの言葉の端々から垣間見えていた。
期せずして、店の女たちは地下室に集められている状態。
梟とみちるは、それを逆手に取ったのだ。
「ボス・ヴェントーラの荷物はいつ届く?」
梟の灰色の眼は、目の前の青い眼を覗き込む。
「あ、明日の夜」
アニエロは生唾を飲み込んで、声を震わせながら答えた。
「何時頃だ」
「わかんねぇけど……大体七時くらい?」
はっきりしないアニエロの回答に、梟は舌打ちする。苛立っているのは、銃口を押し付ける力の強さでもわかる。
「荷物が届いたら俺たちのところへ持ってこい。いいな」
「どうせ俺に、拒否権ないんだろ」
アニエロは半ば呆れて、梟を鼻で笑った。梟は口元に笑みを浮かべ、「その通りだ」と言い放つ。
梟は立ち上がると、インターフォン越しにみちるへ声をかける。
開錠される音が聞こえ、梟がドアノブに手を掛けたタイミングで、アニエロは突入を試みようとした。
「ボス・ヴェントーラの荷物を受け取るまでは、この地下室に近寄るな」
しかし、こちらを振り向かずに銃口だけを向けた梟が、低く険しい声音で言った。
アニエロの体がビクッと揺れる。
そのせいで一瞬出遅れたアニエロは、扉の中へ吸い込まれた梟の後を追おうとしたが、すぐに扉は閉められた。
「あぁ……最悪すぎる」
非常階段のステップに座ったアニエロが、悩まし気に髪を掻き上げると、毛先から消火器の粉が散った。
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