4-7.

        *



 みちるはドアを開ける。上部に取り付けされたドアベルが、ハープのような繊細な音を鳴らした。

 中にいる人間の視線が、一斉にみちるへ突き刺さった。

 

 静まり返った個室の中、施術台に腰掛けた男が、焦茶の瞳で鋭く睨みつける。――この男が『殿下』だ。

 東欧系の彫りの深い顔立ちは、みちるが良く知る人間にも近い特徴がある。

 身に着けたスーツは皺もなく、スラックスのタックは綺麗なシルエットを作っている。

 有名なブランドのロゴが入った腕時計、スーツとシャツの色に合わせたネクタイ。

 

 最初に顔を合わせた時はろくに視線を合わせてもらえなかったので、こうしてやっと、相手の顔を見ることができた。


 そして、壁際のスツールに腰掛けているのは、梟だった。

 不機嫌そうな様子を隠しもせず、咥えた煙草のフィルターを噛んでいる。

 

 間接照明しかない個室は薄暗く、お互いの顔が影を帯びる。おかげで表情が暗く見える。

 それだけでなく、この場の空気が最悪なのは間違いなかった。

 煙草の煙が床へ押し付けられていくのではないか、と錯覚しそうなほどの空気の重さ。


 停滞した空気に、みちるは困り果て、薄く笑みを浮かべた。

 すると、施術台に座る『殿下』が値踏みするように、ドアから入ってきたみちるの姿を上から下まで見回す。

 

「これじゃ歳を取りすぎだ。アジア人なら若い方が金になる」

 つまらなそうに言い、興味を失くしたのか、『殿下』はみちるから視線を逸らす。

 

「いきなりそんなこと言います?」

 不躾な声掛けに、みちるは口元を引き攣らせた。

「他の仕事で稼げているので、ご心配なく」

 苛つきを言葉の端に隠して、みちるは無理やり笑ってみせる。

 座る場所が見つからず、みちるは壁に凭れかかりながら、ドア付近にポジションを取った。


「ぐだぐだ話していても、無駄な時間だ。結論、お前たちは何を探りに来た?」

 『殿下』は自身のスーツのポケットから、煙草を取り出す。それを咥えながら、みちると梟へ順番に視線を遣る。

 

「お前たちとヴェントーラ一味ファミリーとは関りがない、とはアニエロ・シアーノから聞いた。だが、お前たちはアニエロ・シアーノのもとによく通ってきているらしいな」

 ダイヤモンドが装飾された金属製のライターを見たみちるは、一瞬眉間に皺を寄せる。

 照明の光を取り込んだダイヤモンドが光るのを見て、成金趣味だと思ったのだろう。

 

「ヴェントーラの方が、あなたと比べて、面倒見がいいんですよ」

 みちるが皮肉を込めて言うと、『殿下』は乾いた笑い声を短く上げた。

 

「随分と口が軽い女だ。こっちの男は全然喋ってくれなくて、手を焼いていたところだったんだ」

 『殿下』はおもむろに、梟を指差す。梟は、床に煙草の灰を振り落として目を伏せた。


「彼は、付き合う友達を慎重に選ぶタイプなので」

 みちるは、『殿下』の怒りをわざと煽るように、口元を少し上げる。

 

 それを聞いた『殿下』は鼻で笑った。

「私が選ばれなかったとでも?」

 『殿下』は、みちるへの不快感を露骨に表情へ出している。

 

「いえいえ、選ぶなんておこがましい。こちらから固辞したんです」

 みちるの態度は揺るがなかった。梟はわざと、息を吐く音が聞こえるように、煙を吐き出す。

 

 『殿下』は黙り込み、ライターの蓋が開閉する音が、静寂を引き裂くように響いた。

 それが一頻ひとしきり続いた後、途端に止まる。

 

 それをきっかけに、みちると梟の視線が『殿下』へ向く。

 『殿下』はライターの炎をうっとりとした眼で見つめている。それだけで、この場の緊張が張り詰めた。

 

 『殿下』はそれを狙ってライターを開閉していたのだ、と気づいた時には遅かった。

 空気を、支配されている。


「ヴェントーラ一味の差し金でもないなら、いよいよ何のために私のことを探っているのかわからないんだが」

 『殿下』の焦茶色の眼が、炎の向こう側のみちるを睨め付ける。

 かすかにゆらめく炎の隙間から見えるみちるは、笑みを浮かべたままだったが、黒い眼は揺れている。

 梟は、動揺を一切見せずに、煙草を吸う動作を繰り返していた。

 

「お前たちは、廃墟団地についても嗅ぎ回っているようだな」

 『殿下』はライターの蓋を閉め、そのまま振りかぶってみちるへ投げつける。

 だが、みちるは軽やかに上体を傾けて避けた。

 あとは、壁にぶつかったライターが床に落ちる、無機質な音が響いた。

 梟の舌打ちが、その次に聞こえる。梟は、口元を不愉快そうに歪めていた。


「あっぶないな……」

 みちるは体勢を元に戻しながら、迷惑そうに険しい顔でぼそりと言った。

 

「嗅がれちゃいけないものが、そこにあるんですか?」

 床に転がったライターから、みちるは視線を上げて『殿下』を見た。

 挑みかかるような、気の強い眼差しは、『殿下』の顔を顰めさせるには十分だ。

 

「自分の縄張りを荒らされるのは、不愉快だ。まして、何のつもりかわからない連中なら尚更だ」

「そうでしょうね。私たちも、最初はそんなつもりがなくて」

 最初は冷静に話し始めた『殿下』は、だんだんとヒートアップしていく。

 それに対して、みちるは糸目になって笑う。瞳が隠れて、感情がますます見えなくなる。

 

「では今は一体、どんなつもりだ?」

 『殿下』は片側の口角を上げ、鼻で笑う。  


「あなたが雑用係で雇っていた、ヤンって男の子、覚えてます?」

 みちるは、すっと感情を消した表情で、『殿下』を見た。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る