2-6.




 

 午後六時。終業時刻ぴったりに、ドミニクはロッカーへ向かう。そうしないと、屋敷にいる誰かから、用事を言いつけられて、したくもない残業をする羽目になる。

 ロッカーで、ドミニクは履いてきた安全靴を、自前のスニーカーに履き替える。そのまま履いて帰る作業員も多いが、ドミニクは履き替えるようにしていた。

 ドミニクは安全靴を鞄にしまい、同じシフトの作業員たちと別れ、『殿下』の屋敷を後にした。

 

 

 そして、『殿下』の屋敷からアニエロが経営している違法なマッサージ店へ直行した。その時には、時刻は午後六時半を過ぎている。


 今、ドミニクはマッサージ店の床の上で跪き、両手を頭の後ろに上げている。

 どうしてこうなったのか、とドミニクは今日一日のことを思い返している。


 涙目のドミニクは震えながら、救いを求めるように、施術台に腰掛けている女を見る。

 

 施術台で足を組んで座っている女は、No.2とは似ても似つかない、黒髪黒眼のアジア人の女だった。――そしてドミニクは、この女を知っている。

 昨日、ドミニクの後輩であるヤンという少年が、出勤する時に乗ってきた車にいた女。

 今朝、ヤンの行方を尋ねに現れ、ドミニクが応対した女。

 

 女の手に握られている銃は、ドミニクに向いていなかった。しかし、この狭いマッサージ店の部屋の中でそれは、ドミニクにとって恐怖でしかなかった。

 

「アニエロから情報を聞いた時、なんとなーくあなたの顔が思い浮かんだんですけど、やっぱりあなたでしたか」

 アジア人の女は、跪いてホールドアップしているドミニクに笑いかける。

 この女が、今朝の時点から自分のことを不審に思っていた、と匂わせてきたので、ドミニクの心拍数が跳ね上がった。エアコンの効いた店内なのに、ドミニクの額には、じわりと汗が浮かんでいた。

 

「……」

 マッサージ店の男性スタッフに案内されて、入った個室にいたのが、この女だった。

 女の手にある拳銃ハンドガンを見せられ、有無を言わさず「跪け」と命令された。そうして、この状態である。

 女の黒い眼は、感情を見せてこない代わりに、こちらの何かを見透かしてくるようで、ドミニクは息をするのも窮屈に感じる。喉を鳴らして息を呑んだ。

 

「ちょっとお話しましょうか」

 そう言った口元は笑っているが、こちらを見下ろしてくる黒い眼は一切笑っていない。

 

「お、お前に、話すことなんかない」

 ドミニクは声を裏返して言い返す。涙が零れないように、眼に力を込めるので精いっぱいだった。

 

「実は言いたいことがある人しか言わない台詞なんですよ、それ」

 女は施術台から降り、ドミニクの目の前に屈む。同じ高さで視線を合わせているのに、ドミニクはずっと見下ろされている気分だった。

 

「大丈夫、『殿下』には、あなたから聞いたなんて言わないので」

「冗談じゃない!」

 ドミニクは激しく首を振る。女はその様子を眺めてから、軽く首を傾ける。

 それから鼻で笑い、女は囁いた。

「ヤンについて知っていること、素直に話してくれたら」

 余裕綽々な女の態度に、ドミニクは恐怖と同時に苛立ちも覚えていた。感情を抑えるために、頭の後ろに回した手で、自身の髪をグッと握り締める。

 

「あなたがアニエロ・シアーノの店に毎日通っているなんて、『殿下』へ密告しません」

 ここがアニエロの経営する店であること。

 アニエロが『殿下』と犬猿の仲であること。

 ドミニクはどちらも理解している。それでも、この店の売上No.2の子に会いたくて通っている。

 

「このこと知ったら、『殿下』は、さぞお怒りになるでしょうね。自分が従業員に払った給料が、あろうことか自分と対立関係であるアニエロのもとに入っているなんて知ったら」

 このことを『殿下』に知られるのは、ドミニクにとって最も避けたい事態だ。

 ドミニクは目を閉じ、祈る。

 どうにかしてこの場を逃れる方法はないか、頭の中で必死に考えを巡らせる。

 

「……頼むよ、俺には家族がいるんだ……」

 考えたところで、ドミニクには何の方法も捻り出せなかった。ドミニクが守るべき家族の話をする以外は。

 

「私も、あなたの家族を困らせたいわけじゃない」

 女はずっと笑みを絶やさない。その笑顔が空々しく見えて、ドミニクは奥歯を噛み締める。

 

「廃墟団地から人がいなくなるのは、『殿下』が人身売買や臓器売買をやっているから?」

「知らない」

 女の問いに、ドミニクは首を振って回答を拒むしかできない。

 

「そう言わずに、素直に教えてくれません?」

 女の、銃を握っていない方の手が、ドミニクの肩を叩く。

 その手に驚いたドミニクは肩を揺らしたが、女の手はドミニクの肩を離さなかった。


 黒い眼に映るドミニクは、不安に震えて怯えているしがない男だ。女の眼から見えた自身の姿から、ドミニクは目を逸らす。

 

「昨日、ヤンの身に何があったかも、聞かせてください」

 女は優しい声音で、しかし眼は冷たく、尋ねる。

 

「俺は……俺はっ何も、知らない!」

 ドミニクが声を張り上げた瞬間、女の銃口がドミニクを捉えた。女から、ゼロ距離で銃口が向けられた。

 

「あんまり騒がないで。私はただ、話をしにきたので」

 さっきよりも声のボリュームを落とし、女は囁くように言う。

 口調や表情こそ、冷静そのものの振る舞いをする女だが、引き金にかけた指先は、いつでもドミニクを狙っている。


 ドミニクは息を過剰に吸い込み、大袈裟に吐き出す。

 これは深呼吸と言うほどゆったりしたものではなく、極限まで緊張した人間が、酸素を取り込もうとするとっさの反応に近い。


 ドミニクの手が、頭の後ろから、だらりと降りてくる。その手は膝の上に置かれ、ボトムスの布地を引っ搔いた。

 女はドミニクの動作に注意を払いながら、ドミニクが口を開くのを待っている。

 

「ヤンは……もう……いない……」

 そう切り出したドミニクは、虚ろな目で、自身の膝を見つめている。

 

「妹がヤンと同い年で、小さい頃は仲が良かったんだ。廃墟団地の同じフロアで、よく一緒に遊んでた……」

「なら、幼馴染?」

 女は銃口を向けたまま、相槌を入れてくる。

 

「そうだ。でも、お互い成長すると、顔を合わせたら挨拶するくらいの繋がりでしかなかった」

 そう言うと、ドミニクは膝に置いた手を固く握る。

 

「俺は一足先に、『殿下』の屋敷での雑用係として雇われた。二年ぐらい後に、ヤンが『殿下』の屋敷に雑用係として雇われた。子供の頃みたに仲良くなったわけじゃないけど、会ったらそれなりに世間話するくらいは、してた」

 小さい頃から病弱だったヤンの弟・オレクが入院したのも、そんな世間話のついでで知った。ヤンとドミニクの付き合いは、それくらいの薄さだった。

 

「昨日はたまたま……仕事が終わった後、俺たちは一緒に帰ったんだ……。昨日は、妹の誕生日だったから……真っ直ぐ帰ろうと思って」

 ドミニクの言葉は、昨日の話になると、急に歯切れが悪くなる。

 女はそれに気づいて、一瞬、刺すような眼を向けた。

 

「そしたら、俺の家に……何人もいて」

「うん?」

 昨日について語るドミニクの言葉は、断片的になってくる。

 女は思わず聞き返したが、ドミニクはそのまま話し続ける。


「そいつらは、妹を……連れて行こうとした『殿下』の手下で……妹が、部屋から引き摺り出されるところで……」

 ドミニクが言わんとしているのは、昨日帰宅したら、家の中に何人もの『殿下』の手下がおり、彼らはドミニクの妹を連れ去ろうとしていたところだった、という話のようだ。

 

「俺は……足が竦んで……動けなかった……」

 ドミニクの瞳から落ちた涙は、膝に置いた拳へ着いて、跳ねる。


 妹が『殿下』の店に売られてしまう。

 それを止めなければならないと分かっていながら、ドミニクの中にはほんの一瞬だけ、「これで少しは生活が楽になるのかもしれない」という考えがよぎっていた。

 そうした自分自身への嫌悪が、彼の足をさらに重くしていたのかもしれない。


「そしたら、ヤンが……妹を庇って」

 ドミニクと一緒に、その現場を見たヤンは、ドミニクの妹を解放するために、手下たちの前に出て行った。

 ヤンは妹を守るために手下たちの前に立ちはだかった。

 両手を広げ、妹を背に隠すようにして「俺を売ればいい」と叫んだ。――その光景がドミニクの瞼に焼き付いている。


 その一方で、ドミニクは妹を抱き抱え、フロアの廊下の片隅で固まっているだけだった。

 数分もしないうちに、手下に両脇を抱えられたヤンが出て行くのが見えた。ヤンへ声を掛けることもできずに、ドミニクは見送るしかできなかった。


「ヤンは……手下に連れて行かれて、その後の行方は……知らない」

 ドミニクはそこで、わぁっと声を上げて泣き出した。

 女はそんなドミニクを、どこか冷めた眼で見ているが、銃口は下げた。

 

「……妹さんは、とりあえず無事で?」

 床に伏せる形で泣くドミニクへ、女は尋ねる。その声音には微かに疲れたような、呆れているような部分が混じっている。

 

「……無事、って言っていいのか……。家で、ずっと、泣いてる……」

 ドミニクはそう答えるだけ答えると、また泣き始めた。



 

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