1-6.

          *

 



 この国は長らく、計画経済で運営されていたのだが、数年前に政変が起こり、資本主義経済へ舵を切った。

 政変以降も、何度かの政権交代を繰り返している。今の政権は、海外資本の会社の誘致を進め、都市部の真新しいビル群は、そういった海外系企業のビルがほとんどだ。


 そのお膝元、歓楽街がある。

 歓楽街、ひいてはそこを牛耳る犯罪組織も、政変により影響を受けた。海外の勢力が、手を伸ばしてきたのだ。


 もともとこの歓楽街の覇権を握っていたのは、『殿下』と呼ばれる、あの無愛想な男だった。その牙城を、他国のギャングやマフィアが崩しにかかっていた。

 今回、みちるとサヴァンセが運んだのは、『殿下』と揉め事を起こした海外勢力からの「詫び代」である。

 裏社会にも、政治がある。

 まともにやり合うメリットがなければ、他の解決法を選ぶ。


 

 そんな歓楽街の片隅にあるビルの一室。えた臭いのする階段を登る人影がある。

 そのことを、物に溢れたソファで泥のように眠っている、金髪のイタリア系の白人男性は知らなかった。

 

 乱暴にインターフォンが鳴らされ、男はビクッと体を跳ねさせた。その間にも、インターフォンは連打されている。

 金髪の男は慌てて起き上がり、恐る恐るドアの前に立つ。ドアスコープから見えたのは、黒い瞳だけだ。

 ドアの前にいる人間は、顔を極限まで近づけて、こちらを覗き込んでいる。

 

 金髪の男は、思わず「ひっ」と悲鳴を上げた。

 汗が額を伝い、震える手がドアノブに触れる。

 だが、その手に力が入らない。開けるべきか、開けざるべきか。

 判断は完全に麻痺していた。

 

 そんな中、ドアスコープから黒い眼が少しだけ遠ざかる。

 黒髪のストレートヘア、女。

 断片的に見えた特徴を見て、金髪の男はやっと思い出した。


 自分たちのが、『殿下』に金を運ぶ役目を、とある二人組に任せたこと。

 そして、その二人にはもてなしを尽くせ、と言いつけられていたことを。


 金髪の男は、ごくりと唾を飲み込んでから、ゆっくり慎重に、ドアを開けた。

 わずかに出来た、その隙間に黒い瞳を持つ女が、ぬっと顔を出してきた。

 それを見た金髪の男は、また悲鳴を上げた。


「おはよう、アニエロ・シアーノ」

 金髪の男の名前を口にしたのは、開いたドアから現れた、黒髪黒い瞳の若いアジア人の女だった。

 

「なん、なんで名前っ」

 自分の名前を言い当てられたアニエロは、声を裏返らせた。

 

「ボスのニコ・ヴェントーラから聞いていたから」

 黒髪の女はニヤッと笑った。

 アニエロのボス、ニコ・ヴェントーラは本国イタリアで一、二を争うマフィアのボスだ。

 ここはヴェントーラ一味ファミリーが、この国で活動するにあたって作った支部のようなものだ。

 

「午前中は、ヴェントーラ一味が経営する、違法なマッサージ店の上の事務所で寝ているから、叩き起こしていい、とも聞いた」

 黒髪の女の後ろから、ボソボソとした男の喋り声が聞こえてきて、アニエロはさらに困惑する。

 いつの間にか、黒髪の女の背後には、目つきの悪い灰色の眼をした白人の男がいた。

 

「仕事終わりましたよ、ってボス・ヴェントーラに伝えておいて」

 そう言って、黒髪の女は部屋に入るなり、さっきまでアニエロが寝ていたソファに座る。

 アニエロがあたふたしている間に、灰色の眼の男も部屋の中に入り、女の隣に腰を下ろした。


 アニエロは突然の事態に狼狽えながら、この二人についてボスから聞かされていた内容を必死に思い出す。

 こんなことになるなら、昨日あんなに深酒しなかったのに、と頭が痛くなる。


 女はたしか、ミチル。日本人。ボスの知り合い。

 男はサヴァンセ――この男の国の言葉で「梟」を意味する名前。


 もてなせ、とは言われていたが、今この状況で、何をすればいいのだろう。

 酒を出す? コップは自分が使っているものしかないというのに。

 

 アニエロは部屋の中に視線を巡らせ、何をすべきか考える。

 不意に、嗅ぎ慣れない煙草の匂いがして、その匂いの方向を見る。

 煙草を咥えたサヴァンセが部屋の中をぐるりと見渡してから、煙を吐き出しているのが目に入る。

 梟の灰色の眼と視線が合った瞬間、震え上がるような威圧感を覚え、アニエロは眉間に皺が寄る。


「どうでもいいんですけど、あなたを経由しないで、私たちが『殿下』へ金塊を渡しに行く理由って、なんだったの?」

 そもそも、この金塊を輸送する依頼は、二人がたまたま旅先で、ボス・ヴェントーラと会う機会があり、そこで持ちかけられた話だった。

 たっぷりの報酬と、もてなしを用意するという言葉に惹かれて受けた仕事だ。

 

 そもそも『殿下』の支配下の中でも、支部といえる場所があり、アニエロという部下がいるのだから、みちると梟を出すまでもない話で、それが不安要素でもあった。

 

「いや、その、俺、『殿下』から出禁食らったから……」

 手持ち無沙汰な上に、話がアニエロにとって気まずい方向に進み、虚な眼で答えるしかなかった。

 

 どうやら、この地におけるヴェントーラ一味と『殿下』との揉め事の発端は、アニエロのようだ。

 

「あー、そういう」

「結構しょうもない理由だったな」

 みちるの反応は半笑いで、梟に至ってはつまらなそうな顔で言うだけだった。

 

「終わったんなら、終わったってボスに電話一本で済む話だろ! なんで俺が頼まれなきゃ」

 いきなり入ってきた二人組に、半笑いで話を聞かれたアニエロは、いよいよ腹が立って、語気が荒くなる。

 

「それは、こちらの台詞でもある」

 梟の声は、ヒートアップしたアニエロを一瞬でひやっとさせる、冷たさがある。

 梟は煙草の灰を、ソファの上の灰皿に振り落とす。

 

「ボス・ヴェントーラは話が長い。通話代がどれだけかかると思う? それに今回は、お前の不始末を、俺たちが尻拭いしてやったわけだ。だったらお前は、俺たちに恩があるな。電話ぐらい、お安いご用だろ」

 滔々と語る梟に、アニエロは拳を握り締める。

 

「クソが!」

 顔を赤らめて吐き捨てるが、二人にはまったく響いていない。

 みちるは微笑んでいて、梟は部屋を見渡しながら、ゆっくり煙草をふかしている。


 みちるは何かを思いついた顔で、急にぱん、と手を叩く。

「あ、そうだ。おすすめグルメと観光スポット情報を教えて」

「はい⁈」

 みちるの突然の質問に、アニエロは面食らって、眼を泳がせた。

 

「え……西の方にある屋台街と、水族館、とか」

 思いつくものを口にすると、

「健全すぎるラインナップでちょっとびっくり」

 みちるはとても意外そうに、眼を丸くしていた。

 

「うるせぇな! 不健全なおすすめスポットは、この時間やってねぇんだよ」

「あーたしかに」

 アニエロが言い返すと、みちるはすんなり納得した。それが拍子抜けすぎて、アニエロは怒りを持て余してしまう。

 

 みちるはソファから立ち上がると、立っているアニエロのそばに寄る。

「じゃ、ありがとうね、アニエロ・シアーノ。あとは勝手に楽しむから、ボス・ヴェントーラによろしく」

 そう言って、肩を軽く叩き、ドアを開けて出て行ってしまう。

 

 出ていくみちるを追うように、振り返ろうとすると、今度は梟が目の前にいた。

「今後は、迂闊にドアを開けないようにしろ。俺たちじゃなかったら、お前、殺されていたかもしれないからな」

 梟の言葉は不穏なもので、アニエロは顔を引き攣らせた。

 無表情の梟は、それだけ言うと、みちるを追ってドアを出ていく。

 

 アニエロしかいない部屋のドアが、バタンと閉まる音が響いた。

 静寂が訪れ、アニエロはその場に立ち尽くした。

 残ったのは、煙草の匂いと、どうにもならない苛立ちだけ。

 

 まるで嵐のような去り方だ。




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