1-3.
少年は鞄を大事そうに前に抱えて、後部座席に座る。その隣に女が座った。
少年は気づいていないが、女のウエストには
それを抜く瞬間がこないように、と女は内心で祈りながら、少年の横にいるのだが、そんなことは誰も知らない。
「おたくらは何しに、殿下のところへ?」
少年は、何の意図もなく、ただ質問しただけだろう。だが、場の空気がすっと張り詰めた。助手席には二億円相当の金塊が、アタッシュケースに詰められている。
「私たちは、届け物を渡しに来たんだ。大事な資料なんだって」
女は目的地へ向かう理由を、適当にぼかして伝える。
「あぁ、殿下のところにはよくプレゼントが届くからね」
少年は純粋な好奇心で尋ねただけだったらしく、それ以上突っ込んでくることはなかった。
「一つ、聞いてもいい? どうして『殿下』って呼んでるの?」
女は話を変えようと、『殿下』という呼び名の人物の話を、少年に振る。
「あぁ……殿下は、殿下って呼ばないと怒るんだ。でも、みんな殿下って呼ぶのは、悪口のつもりだよ」
そう答えた少年は少し呆れたような口振りをしていた。
「だろうね。馬鹿は高いところが好きだから」
少年の言葉に、女は少し皮肉を込めて返す。それを聞いた少年が、ぷっと吹き出して笑う。
「厳密に言うなら『高いところから人を見下すのが好き』だ」
運転席から後ろを振り返った男も、追撃してくる。少年はお腹を抱えて笑い出した。
「おたくら、すごい毒舌だね! でもそれ、絶対、殿下の前で言っちゃダメだから」
「殿下は独裁者か何かか」
運転席の男が、前に向き直りながら言うと、少年は急に真顔に戻り、窓の外の風景に視線を遣る。
「まぁ……それに近いものはあるかな」
車はまだ、都心部には辿り着いておらず、お世辞にも整備されているとは言えない道が続いている。
「あ、そうだ。まだ名乗ってなかったね。俺の名前はヤン。殿下のところで、雑用係として雇われてる」
ヤンと名乗った少年は、隣にいる女へ握手を求めるように手を出す。
「私はみちる」
その手を握り返した女――みちるは、にっこりと笑った。
続いて、運転席の男が名乗るかと思ったが、男は無言だった。小さな舌打ちが聞こえてくるだけだ。
「運転席の不機嫌なおじさんは……サヴァンセ。サバちゃんって呼んでいいよ」
みちるは困った顔で、口元を笑う形にしてみせる。そして、ヤンと握手していた手を離し、その手で前方を指差す。
「くだらない呼び名を初対面の人間に教えるな」
サバちゃん、と呼ばれた男は、後ろを振り返って明らかに苛ついた顔をした。
「『殿下』が悪口になるには、それなりの理由があるんだろう?」
ヤンの口から出る『殿下』の話には、少しだけ棘がある。それを感じ取ったサヴァンセは、煙草に火を点けながら、問いかける。
「……めちゃくちゃ金持ちで、自分の会社に廃墟団地の人間を雇ってくれる。無料の炊き出しとか、食料を恵んでくれる。一応、立派な人さ」
ヤンの、その言葉には、吐き出すような感情がこもっている。
「殿下は、廃墟団地の人間を使って、麻薬の密売とか売春組織とかもやってる。たぶん、そっちの方が儲かってる。いろんな意味で、俺たちを支えているのは殿下なんだよ」
「つまり、スラム街の住民をいいように搾取している、ということか」
サヴァンセは無表情で言う。ヤンの話に耳を傾けながらも、ヤンの目の前にある現実がどういうものなのか、察してしまった。
人々の間で口にされる『殿下』という呼び名には、感謝と憎しみがこもっている。
「みーんな、それはわかってるんだよ。でも、おたくらと違って、俺たちにはそれ以外の道がないから」
みちるはそれを聞きながら、虚空を睨む。ヤンは重たい溜め息をついた。
閉塞した状況を脱け出す方法を、廃墟化した団地の住民は知らない。
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