第3話 蟹江登一の番

 内村うちむらおさむが説明する。

 「さっき、木庭こば晴恵はるえが得意そうに言ってた大正デモクラシーの話も、たぶん、というより、確実に、その子が調べてきたんだよ。ほんと、そこらの大学生よりずっとよく調べてる。ネットで調べた、っていうと、木庭晴恵が、ネットに書いてあることぐらい自分で調べられます、って怒るから、あの子は県立図書館とかまで行って、文献探してコピーしてるんだぜ。そのコピーをかじり読みした知識を木庭晴恵は横流ししてるだけ。そんなのだから、歴史小説なんか書けるわけがない、って言ってるわけ」

 「じゃあ」

蟹江かにえ登一とういちが言う。

 「いっそのこと、その子が書いてしまえばいいのに」

 「そう思うだろ?」

と内村修はにーっと笑った。

 「そう思ったのは蟹江君だけじゃなくてさ。その、お嬢ちゃんに調べさせてるって話は、だいたいどこの出版社にも伝わってるから。本気かどうか、っていうと、本気じゃないだろうけど、瑠音るねちゃんっていうんだけど、その子に、お母さんが書かないならいっそのこと瑠音ちゃんが書いちゃったら、って、言っちゃった編集者が複数。まあ談風だんぷう社のなんとかさんとかさ、かんば出版のなんとかさんとかさ、品野しなの書店のなんとかさんとかさ。それで、木庭晴恵がそれ聞いてぶち切れて、切れる相手が編集者本人ならまだいいんだけど、お嬢ちゃんに「あんたなんかに編集者の前で目立つ資格ないのよ!」とか言って、どなりつけて」

 「って」

と蟹江登一がことばをはさむ。

 「でも、編集者とメールのやり取りは、その子にやらせてるんですよね?」

 「まあ、会って、顔見知りになっちゃうとほんとに瑠音ちゃんに頼んじゃうと思ってるんでしょ? まあ、あんなことを言ってるひとだから、編集者がメールで瑠音ちゃんにオファー出しちゃう、とかは思ってない」

 「はあ」

と、蟹江登一はそれだけ反応する。

 「だからさ」

と編集者の内村修が続ける。

 「この前、『荒野の子供たち』の出版記念講演会とパーティーって、箕部みのべのホテルでやったんだけど。まあ、瑠音ちゃんもスタッフに入ってたんだけど、わざとお客さんが来るほうじゃなくて、外で、「出版記念パーティーはこちら」みたいなプラカード持たせて立たせてたんだぜ。編集とか、書店の偉いひととか、来賓らいひんとかに会わせないように、って。それで、ずっと立たせてたもんだから瑠音ちゃんが体調崩して、ホテルのトイレまでたどり着いたんだけどそこで倒れちゃってさ。まあ、談風社の営業やってる女のひとが見つけてホテルに入ってるお医者さんのところまで連れて行って、休ませたんだけど、そのとき、木庭晴恵が言ったのが、親のだいじな日に親とみんなに迷惑をかけて、ほんとに役に立たない子、っていうので、それを聞いてたうちの社長が、いや、お嬢さん、よく働いてくれてるじゃないですか、そんなこと言ったらだめですよ、って、あいだに立って、たしなめてくれて」

 「はあ!」

 蟹江登一が感嘆する。

 「誠正せいせい出版の社長さんとは、また、すごいですね。出版界の長老じゃないですか」

 「いや、まあ」

と内村修が目を細める。

 「「長」かどうかは知らないけど、たぶんもっと上に「長」はいると思うし、少なくとも「老」じゃないよね。まだ六十二歳かな? もちろんおれからすると倍とは言わないけど一・八倍とかは生きてるけど、この高齢化社会だからね。まあ、六十五が定年だから六十二で社長は当然だけど」

 「ああ、すみません」

と蟹江登一が謝るが。

 そもそも謝ることなのかどうか。

 「まあ、うちとしても」

と内村修が「長」・「老」問題には触れずに、言う。

 「売れてくれないと困るからな、木庭晴恵の新作。だからわざわざ社長が出て来た」

 で、つけ加える。

 「ま、売れてないけど」

 内村修が笑うと、蟹江登一も、ふふん、と、いっしょに苦笑した。

 「それって、あ、つまり、瑠音さんを編集者とかに会わせないのは、その、木庭晴恵さん、瑠音さんの才能に嫉妬してるから?」

 「いや」

と、内村修が言う。

 「まあ、瑠音ちゃんの文学的才能なんて、本人以外、だれも知らない。編集者だってメールの文しか見てないし。メール見るかぎりでは、論理的に、ちゃんとした、しかも読みやすい文は書けると思うけどね。それに、木庭晴恵だって、たとえば、瑠音ちゃんが学校で書いてきた作文をていねいに見る、とかは、したことないだろうな」

とことばを切る。

 「まあ、木庭晴恵デビュー当時の体育会系のノリだよ。しごきに耐えて、理不尽に耐えて、それで才能を開花させたやつだけが成功を許される、っていう」

 ふう、と、内村修は大きく息をつく。

 「ダメなんだよね、あの世代。いくら民主主義だとか、タテの関係じゃなくて横の関係だとか言ってみても、自分の中に食い込んでる上下関係とか先輩後輩関係とかいう感覚にはぜんぜん批判的になれない。自分が「上」だと思ったら、平気で人を見下す」

 内村修はカップを持ち上げる。

 飲まないまま、目の前に持っている。

 「ともかく、今回の『荒野の子供たち』は、三年待たせて、記念講演会までやって、あの出来だ。編集の現場は、木庭晴恵には次の本のオファーなんてもうあり得ない、って思ってる」

 言って、内村修はアメリカンコーヒーの水面へと目を落とした。

 とくにそこに何が映っているというわけでもないのだが。

 「弊社へいしゃの社長もかなり慎重。でも、その、木庭晴恵が勢いがあったころに上に上がって行った偉い社員が何人かいて、未練を持ってる。木庭晴恵が書いてくれなくなったら、だれかかわりに有望な作家はいるのか、って言うんだな」

 蟹江登一がゆっくりとぼんやりと顔を上げた。

 その蟹江登一の視線を、内村修が鋭くとらえた。

 「そこで、蟹江君の番、というわけだよ」

 「はい」

と、蟹江登一は、同じように自分のカフェオレの表面に目を落とす。

 が。

 「はいっ?」

と再び顔を上げたときは、もうぼんやりと見ている、というわけではなかった。

 「それ、どういう意味です?」

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