第二十四話 一縷の望み
事務所にバイクを置いた後、俺は『スナック翠』へと向かった。
看板に明かりが灯っていることを確認し、扉を開いた。
「いらっしゃい。あら、お兄さんお久しぶりね。」
扉を開けると、ママがいつもの調子で声をかけてきた。
その声を聞きながら、俺はカウンターの奥へと目を向けた。
いつも馬淵が座っている席を確認するが、今日もまだ来ていないらしい。
他の客の姿も見られない。
「ジンをロックでお願いします。」
そういいつつ、カウンターの入り口に近い席に座る。
ママは俺の注文を聞く前からすでにグラスと氷を用意していたようだった。
「今日もマーさんに御用なのかしら?」
ママは慣れた手つきで注文したグラスを俺の前に差し出す。
「まぁ、そんなところです。」
俺がこの店に来る理由はすでにお見通しのようだ。
「でも、どうかしら、マーさんここ3日ぐらい来てないから、今日も来るか分からないわよ。」
「そうなんですか。お仕事ですかね?」
「さぁ、そんな話は聞いてないんだけどねぇ。」
「ママに仕事の話はよくするんですか?」
「そうねぇ、仕事で遠くに行く時には、しばらくお店に来れなくなることを教えてくれるわ。」
やはり今日の
だとすると、3日前から来なくなったというのは違うような気もする。
3日前というと、佐藤の拉致未遂の日なので、その辺が影響している可能性はあるかもしれない。
「馬淵さんが最後に来た日に、何か変わった様子とかはありませんでしたか?」
その言葉にママが一瞬反応したように見えた。
「変わったことって?」
俺の質問に、質問で返してくる。
「いや、普段と違う様子とか、そういうものですけど。」
「なんでそんなことを聞くの?」
こちらが馬淵の様子を聞くつもりだったのが、いつの間にか立場が逆転していた。
「いえ、今朝ダム湖で
その言葉を聞いて、ママが驚きの表情を浮かべた。
「マーさんと
その言葉を聞いて、俺はハッとした。
馬淵と
それは、俊弥から話を聞いていたからで、馬淵から直接話を聞いたわけではない。
そのことを俺はうっかりと失念していた。
俺と馬淵はこのお店以外では面識がないことを、恐らくママは知っている。
このお店で俺が馬淵から聞いてもいないことを知っているのは、ママにしてみれば明らかにおかしい。
「あ、えっと。中野さんの件でいろいろと調べていると、その馬淵さんと
俺は少しうろたえながら、言い訳がましく答えた。
「なるほど、探偵さんだから、いろいろと調べてるってわけね。」
「すみません。」
「そうなると、中野さんの浮気調査と言いながら、本当はもっと別のことを調べてるのかしら?」
そういって、ママが俺の顔を覗き込むように近づける。
香水の匂いなのか、少し甘ったるいような香りが俺の鼻をくすぐる。
「いや、あの・・・」
あまりに顔が近いので、少しドキドキして言葉を詰まらせた。
年齢的には親子と言ってもいいほどの年の差だと思うのだが、この人のしぐさは、いちいち艶っぽくて、気持ちを持っていかれそうになる。
「もしかして、
「いえ、それは全くありません。」
俺は即座にきっぱりと否定した。
馬淵はあの時、普段の靴を履いて現場に来ていたから、ダイバーとは別人物であることは間違いない。
「じゃぁ、なんで中野さんの行方を探すのに、マーさんのところへ来たのかしら?」
「それは、もしかしたらマーさんが何か手がかりを・・・えっ?」
そこまで言われて、俺は戸惑った。
中野さんが行方不明という話はママにも馬淵にも伝えていなかったはず。
なのに、今ママはたしかに『行方を探すのに』と言った。
そして、その言葉を俺は否定せずに、答えようとしてしまった。
俺が戸惑う様子を見てママが少し満足そうな顔をした。
「やっぱり、中野さんの行方が分からなくなっていたのね。」
どうやら俺はまんまとカマをかけられたらしい。
「そして、今度はマーさんが行方をくらませている。その2人に何か共通点か関連性があるということね?」
もうすっかり立場が逆転してしまった。
今ではママの方が探偵で、俺は探偵に話を聞かれる目撃者か何かのような状況となっている。
「いえ、そういうわけでは・・・」
そういいつつ、ママに知られている情報と隠せている情報があやふやで混乱していて、しどろもどろになりつつある。
ママはそんな俺の様子を見て、楽しんでいるようにも見える。
「まぁ、いいわ。とりあえず、お兄さんがマーさんを疑ってるわけではないことは分かったし。」
そういうと、ようやくママは少し離れてくれた。
「それじゃ、マーさんに会って、何を聞きたかったのかしら?」
ここまで来ると、果たして部外者のママにどこまで話をしていいのか難しいところではある。
しかし、ママと俺とは年の功に差があり過ぎる。
おそらく、ほとんどのことが筒抜け状態なのだろう。
「実は、馬淵さんと
俺は佐々木さん殺害現場にいたということは言わずに、ある程度本当のことを話すことにした。
「もしかして、そのダイバーは
「それは現時点では分かりません。」
「もしそうだとすると、中野さんを心配するお兄さんの気持ちも分かるわ。」
俺の話をあまり聞いてはいないのか、ママは自分の考えをどんどんと進めている様子だった。
「すでに一人殺してるんだもん。もう一人殺すことも、何とも思わないかもしれないものね。」
実際には、佐々木さんと
「いいわ。そういう事情なら、マーさんに会わせてあげる。」
「え? それはどういうことですか?」
予想外の話の展開に、俺は一瞬ついていけなくなった。
「実は昨日の夜、マーさんが閉店直前にお店に来たんだけど、ひどくおびえていたの。」
「3日前から来てないって言いませんでしたっけ?」
「昨日を除いて、お客様として来店したのは3日前が最後よ。」
やはりママはなかなかにしたたかな女性のようだ。
「話を聞くと、身の危険にさらされているから、どこか隠れるような場所を教えてほしいと言われたわ。」
「身の危険について、具体的な話は聞かれてますか?」
「そこまでは詳しく聞いてないけど、尋常じゃない様子だったから。マーさんとは知らない仲でもないし、もしかしたら
「馬淵さんと
「ええ、マーさんから聞いているわ。
そのいろんな仕事に、殺人も含まれていることを果たして彼女は知っているのだろうか。
「ほら、
「なるほど、確かにそうですね。」
「で、今朝になって
まぁ、佐々木さんを殺害した現場に居合わせた
「それで、お兄さんのお話を聞いて、マーさんを疑ってないことが分かったし、もしかしたらマーさんも
「そうですね。馬淵さんが恐れているのは、まさにそれかもしれません。」
でも、気になるのは昨晩から怯えていたという点だろう。
そうすると、
昨晩の時点で、自分の身に危険を感じる何かがあったということか?
「ちなみに、昨晩馬淵さんが逃げてきたとき、外傷などはあったんですか?」
「いいえ、特にはなかったと思うわよ。」
ということは、前回のように
「でも、なぜ急に馬淵さんの居場所を教えてくれる気になったんですか?」
「お兄さん、マーさんのこと疑ってないし、マーさんが逃げてる相手でもなさそうだったし。何よりもお兄さんが探している中野さんももしかしたら殺されるかもしれないと思ったから。」
そういって、ママはカウンターの奥の電話のそばへ歩いて行った。
電話のそばにあるメモを取り出し、ペンを走らせて何かを書いている。
そして、書き終えると、そのメモを1枚切り取り、俺に手渡した。
「マーさんは今ここにいるはずよ。お兄さんがマーさんの敵でなければ、素直に出てきてくれると思うわ。」
「先に電話をかけて、警戒を解いてもらうことは?」
「ごめんなさいね。マーさんの電話番号、私知らないから。」
電話番号も知らない相手に、隠れる場所を教えるママもすごいなぁと思ったりもする。
「とりあえず、ありがとうございます。」
俺は出されたジンにまだ手を付けていなかったことを思い出し、飲み干すためにグラスを手にしようとした。
しかし、飲んでしまうとバイクに乗れないことを考えると、ここは飲まない方が良いと判断する。
そのことを察したのか、俺が伸ばそうとしたグラスをママが先に片付けた。
「今日はお兄さん飲んでないから、お代は次に来た時のツケということでいいわ。」
こういうところがママの商売上手なところだろう。
俺は素直にお礼を言って、店を後にした。
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