第十五話 河童
「これは、思ってたよりもきついな」
ついつい愚痴が口から出てしまう。
俺は山からダム湖へと流れる川の一つをダム湖側から川上へと遡っていた。
俊弥から言われて、ダム湖建設の時以来廃棄された残りのプレハブ小屋を調べるためだ。
昔は川のすぐ横に道路があって、その道路脇にプレハブ小屋が建っていたのだが、人が通らなくなって、道路は完全に木々で覆われてしまっていた。
それでも、元道路の方がまだ通りやすいだろうと思って道を遡り始めたのだが、歩き始めてすぐに、道が土砂崩れで完全に通行できない状態になっていた。
そのため、川のすぐそばを遡ってプレハブ小屋を目指すことにした。
川の左右は急な斜面で囲まれており、川はちょうど谷底のような位置を流れている。
川幅はそれほど広くはないものの、時折崖のように切り立った巨大な岩が出てきたり、滝壺のような場所があったりした。
装備さえしっかり準備していれば、沢登りの感覚で楽しめたかもしれない。
しかし、いつもの格好でやってきた俺にとっては、かなりの難所ばかりだった。
途中何度も戻って沢登り用の装備を準備した方が良いのではないかと考えたが、ここまできたら、最後まで進む方が早いと考え、そのまま強行した。
さすがに、こんな場所まで重行さんが来るとは到底思えない。
そんな思いが脳裏をよぎって、途中何度も挫けそうになる。
しかし、殺人犯から逃げることを考えると、これぐらいの道は進むのかもしれないと思い直して、ひたすら登り続けた。
プレハブ小屋まであともう少しのところで、これまでにないほどの切り立った大岩が目の前に
大岩の上から水流が勢いよく足元の滝壺に落下している。
水しぶきが上がって、かなり心地よい。
休憩するなら気持ちいい場所なのだが、これを登るのはかなり苦労しそうである。
左右にどこか迂回路のようなものがないかと見渡すが、そんなものは見当たらない。
やはり一度戻って装備を整えてから来るべきか。
そんなことを考えていると、大岩の上で影が動いた。
慌てて大岩の上に視線を移動させる。
するとそこには太陽の光を背にした、黒い人影が見えた。
俺の位置からだとちょうど逆光になって男女の区別すらもつかない状態。
大岩の上から、俺を見下ろしているように思えた。
ただ、その人影の手の部分を見て、違和感を感じた。
手のひらの大きさに比べて、手指が異常に短く見える。
感覚的には指の長さは普通の人の第一関節ぐらいの長さしかないように見える。
光の加減でそう見える錯覚かとも思ったが、他の部分の輪郭の感じと比べても、やはり指の長さは短く見える。
最近よく聞いていた噂が脳裏に蘇る。
もしかしたら、河童なのかも。
俊弥には完全に否定されたが、目の前に見えるその手指の短さは、指の間に水かきがついている生き物のよう。
なんとかしてその正体を確認しようと手をかざしてみるが、完全な逆光状態で、そこにいるのは黒い影としか見えない。
「こんなところで、何やってるんだ?」
大岩の上から声が聞こえた。
河童はどうやら人の言葉を話せるらしい。
「もしかして、あんたも沢登りか?」
「まぁ、そんなところだ」
プレハブ小屋の調査に来たというと、いろいろと聞かれるかと思って、適当にお茶を濁す。
「それにしちゃ、服装が軽装すぎるな。」
「この格好でどこまで行けるか、ちょっと試してみたくなってな。でもこの大岩を上ることができなくて、そろそろ戻ろうかと思っていたところだ。」
実際、装備を取りに戻ろうかと考えていたのは事実だ。
「なんなら、手伝ってやろうか?」
大岩の上の人物が協力を申し出てくれた。
「そいつはありがたい。」
さすがに、河童の口から『沢登り』などという言葉が出るとは思えないので、大岩の上にいるのは人間で間違いないだろう。
「よし。ちょっと待ってな。」
そう言って大岩の上から人影が姿を消した。
しばらくして再び戻ってきた。
「ちょっと後ろに下がってくれるか。」
岩上の人物に言われて、俺は少し後ろに下がった。
すると、岩の上からロープが投げ下ろされた。
「とりあえず、そばの木に括りつけてあるから、これを使って登ってみてくれ。」
俺は下ろされたロープをつかみ、少し強めに引っ張ってみる。
しっかりとした抵抗があり、ロープはどこかに括りつけられていることが分かる。
そのロープを両手で手繰り寄せながら、大岩を少しずつ上っていく。
そして、何とか大岩の上に上ることができた。
「ありがとう、助かったよ。」
「いやいや、困ったときはお互い様さ。」
大岩の上にいた男は年の頃は40歳ぐらい、背の高さは170cm前後で、がっしりとした体つきをしていた。
ヘルメットにバックパックを装備し、沢登りをするための準備がしっかりとされている。
先ほどヒレに見えたのは、指の間にヒレのようなものがついた手袋だった。
「面白いグローブを着けてるんですね。」
「ああ、これか? これはパドルグローブといって、泳ぐときに威力を発揮するグローブさ。」
なるほど、指の間に水かきがあることで、泳力が上がるのだろう。
滝壺なんかで泳ぐときに、あると便利そうだ。
俺が河童だと思った水かきの正体は、パドルグローブというただのグッズだった。
「僕は
「俺は九十九総一といいます。いやぁ、散歩のつもりで川を遡ってきたんですが、予想以上に厳しかったですね。」
「そんな軽装でここまで来れるのが大したもんだよ。」
水瀬と名乗った男は俺の行動力に驚いている様子だった。
「よくこの辺で沢登りをされているんですか?」
この川が沢登りのポイントとは知らなかったので聞いてみた。
「よく・・・というほどではないけど、久しぶりに仕事でこの辺に来たから、せっかくならと思って非番の日にやってるんだ。」
「お仕事で・・・出張か何かですか?」
「いや、僕はフリーの潜水士をしていて、そこのダムの定期検査でこの辺に滞在しているんだ。」
「なるほど、そうなんですね。」
潜水士という仕事は知識としては知っていたが、どこかの会社に所属しているものだと思っていた。
ダムの定期検査の潜水士・・・そういえば、佐々木さんの死体を見つけたのはダイバーとなっていた。
「そういえば、つい先日ダムで水死体が見つかったって聞いたんですが、もしかしてダムの定期検査で潜っていた潜水士の方が見つけたんですか?」
俺の質問に、水瀬さんがピクリと反応した。
「ああ、あれね。あれは僕が仕事の最中に見つけたんだ。」
水瀬さんの表情が少し暗くなった。
仕事中に死体を見つけるなんてあまり経験したくないことだろうからこういう表情になるのも分かる。
「これは、嫌なことを思い出させてしまって申し訳ない。」
「いや、別にかまわないさ。なによりご遺体を少しでも早く引き上げられてよかったし。弔えて良かったと思う。」
水瀬さんの表情が少し悲しそうであった。
水瀬さんは亡くなった人のことを思いやれる優しい人なのかもしれない。
「ところで、僕はこのまま川を下るつもりなんだけど、君はまだ登るつもりかい?」
「そうですね、もう少し行ってみようかと思ってます。ちなみに、この先にもここのような高度差のある場所はありましたか?」
この大岩と同じような場所があると、一人では先に進めないかもしれない。
「いや、ここが一番高度差がある場所じゃないかな。この先しばらくは比較的簡単な地形ばかりだったよ。」
「そうですか、どうもありがとうございました。」
「うん。それじゃ、気を付けて。」
水瀬さんはそういうと、川の流れに乗って、大岩を降りて行った。
僕はそれを見届けたあと、再び川を遡って行った。
そこからしばらく進んだ後、川を離れて10分ほど山道を歩いたところに元プレハブ小屋の残骸があった。
周囲の斜面から土砂が崩れてプレハブ小屋は押しつぶされており、すでに建物としての原型を保っていない状態だった。
中に入ろうにも、小屋としての役割を担っておらず、ただの廃材がそこに散らかっているだけでしかなかった。
当然、周囲に人がいた形跡も見当たらない。
せっかく苦労して登ってきたが、無駄足だったようだ。
この調子だと、あと2か所のプレハブ小屋も果たして残っているかどうか怪しいものだ。
それでも、手がかりがそれしかない以上、重行さんの行方を探すためには、やらないわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせ、元来た道を戻ることにした。
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