第1話 初めてのキス
冥府。そこは悪魔たちの住まう世界。
一聞すれば昏く閑散とし、どんよりと落ち込んだ陰湿な世界を思い浮かべるかもしれない。あるいは、真紅の豪炎が立ち上り、至る所で罪人が獄卒に拷問を受ける、俗に言う地獄を想像するだろう。
しかし、この冥府はそのどれとも違っていた。どこまでも透き通った紺色の空に浮かぶ白い雲、髪の間を駆け抜けて吹いていく風、川のせせらぎと共に聞こえる葉擦れの心地よい音。時折空には流れ星が流れ、草原は波を立てた。
そんな緑豊かな場所が、冥府だった。
冥府に広がる大草原。その中心に位置する、頂点に大木を生やした小高い丘。木影の元に、ポツンと一軒ログハウスが立っていた。
こぢんまりとしていて、落ち着く雰囲気のそれは、かなり年季が入っていて、外壁には蔦がまとわりつき、赤い煉瓦の屋根はところどころが欠けていた。けれども、その作りは堅牢で、致命的な綻びは一切見られなかった。
ゆっくりと時が流れるようなログハウスの中、一人の青年が気持ちよさそうにこれまた小さなベッドで眠っていた。外見は限りなく人に近いが、冥府にいる存在だ。この青年も悪魔である。
彼の名はベル。フルネームはベルフェゴール。神によって最初に生み出された
もこもこで少しだぼっとした白いセーターに、ピチッとしたジーンズといった格好をしている。
「ふぁ…おはよう」
眠りから目覚め、彼は挨拶を投げる。無論、このログハウスには彼一人しかいないので、それに返す言葉はない。だが、ベルはそれで満足だった。
下手に他人を付き合うことが苦手なのである。
彼は起きるや否や、キッチンに向い、新品同然のシステムキッチンの引き出しを開けた。その中には、今や現代日本でお馴染みとなった調味料が溜め込まれている。ただし、そのパッケージは歪ではあるが。
「やっぱり、味は覚えててもガワがはっきりしないんだよね〜。はっきりと思い出せるのはカップヌードルくらいかな?」
彼は右掌を上に向け、そこから黒いモヤを呼び起こす。それが晴れた後には、醤油味のカップヌードルが出来上がっていた。
「神様に頼んで物質創造のスキルつけてもらっておいて良かったぁ」
お湯を沸かしながら、ベルはそう言う。最初にこの世界に来た時のことを思うと、今は随分と落ち着いている。
何者にも縛られない、自由な暮らし。お日様の当たる野原で眠ったり、家の外の机でのんびりとお昼ご飯を食べたり。
ベルが日々を振り返っているうちに、湯沸かし器がコポコポと音を立て始めた。そして、パチンと音が鳴り、保温へと切り替わった。
カップの蓋を半分まで開き、お湯を注ぐ。それと同時に、スープのいい香りが、湯気に乗ってベルの鼻腔をくすぐった。
「えーっと、タイマータイマー」
ベルは、湯は注ぎ終わった後、いちご型のタイマーで、三分を計ろうとした。ちょうどその時だった。ベルの足元に魔法陣が起動されたのだ。それは一瞬にして強い光を放ち、そしてベルを包み込んでいく。
「召喚?いやまあ嬉しいんだけどさ。せめてもう少しタイミングを考えて欲しかったなぁ」
ベルがそう言い終わると同時に、彼は魔法陣と共に光の粒子になって消えた。後には、ベルがお湯を注いでいったカップラーメンだけが静かに残っていた。
◇◇◇
肌を刺すような冷たい空気が満ちた森の中。木々のざわめきは、月明かりも届かないほどに昏いそこを、より一層不気味に仕立て上げていた。そんな中を、ひとつの影が駆けていく。
見た目十七歳ほどの少女の名前は、ニーナ。どこにでもいる平民だった。今は、あらぬ罪の濡れ衣を着せられ、罪人として森に放たれている。無論、ただただ放逐するのではない。狩りの『獲物』としての放逐であった。
「きゃっ!」
後方から飛来した矢が、ニーナの細い右太腿を貫き、鮮血を散らす。既に体には三本ほどの矢が突き刺さっていて、致命には至っていないものの、徐々に命をすり減らしているのは明らかだった。
どたりと、木の根に躓き彼女は泥濘(ぬかる)んだ地面に倒れ込んだ。鮮やかな金髪が泥で汚れる。膝も激しく擦りむいた。
「逃げ…なきゃ……」
痛む足に鞭打って立ち上がり、よろよろの覚束ない足取りで、一歩一歩追手から逃げる。追手はこの追走劇を楽しんでいるらしく、致命傷になるような攻撃を避けていたことで、なんとか命を繋いでいる。
時々足元に矢が突き刺さったり、ナイフが投げられたりしたが、ニーナはそれでも前に進んだ。隣の帝国にまで逃げられれば、どうにかなる。そんな思いでただひたすらに足を動かし続けた。
「建…物?」
そんな絶望的な状況の中、時間の感覚がなくなるくらい歩いて、ニーナは見つけた。石造りの平屋で、かなり大きい。ここなら暫く凌げるかもしれない。淡い期待を抱きつつ、彼女は平屋の戸を押し開けた。
「なに、これ…?」
ニーナは平屋の中にあったものを見て目を疑った。そこには、怪しく紫に光る魔法陣があったのだ。
このサイズの魔法陣、余程の大魔法使いが遺したものなのだろう。平民で、魔法も使えないニーナから見ても、それはすごいものだということが感じられた。
そして、彼女は、次の瞬間、無意識のうちに魔法陣の中央に向けて歩き始めていた。彼女は驚く。自分の意思に反する行動でもあったからだ。止まることもできないまま、やがて真ん中に辿り着く。
そして…
魔法陣が、一層輝きを強くした。
体から力が抜けていく感覚に襲われ、ニーナはその場にへたり込んだ。
そのうち魔法陣は、端から粒子となって崩れ始め、それがニーナの前で何かを象(かたど)り始めた。下からゆっくりと、薄い紫の光を纏った白光が、積み重なっていく。
その時間は永遠か一瞬か。気が付けばニーナの前には、一人の青年が立っていた。ゆったりとした白い服。少し尖った耳に煌めくのは、青い宝石のあしらわれたピアスだ。髪は少しパーマのかかった感じで、目にかかるほどの長さで無造作に整えられている。が、その髪越しでもわかるほどの美貌があった。
「君が僕を召喚したのかなって、うわっ!」
その青年は、少し浮いていたところから急に落下し、体制を崩してニーナの方に倒れ込んできた。
「っ!」
体にくる衝撃にニーナは身構えたが、予想外のことが起こった。想定した衝撃は来ず、彼女の唇に何か柔らかいものが当たったのだ。ニーナは、恐る恐る目を開く。そしてその視界は、髪で隠れていても分かるほどに目を見開き、赤面する青年の顔で埋まっていた。
(え?うそ?今私、キス…してる?)
ニーナの頭を、『?』が埋め尽くした。
◇◇◇
久しぶりの現世に顕現できるからか、ベルの気持ちは昂っていた。人間たちの営む街の観光は、長く生きているベルにとって、それなりの娯楽になり得るからだ。
契約期間中しか現世にとどまることができないという制約のある悪魔ではあるが、力の大小によって契約なしでも暫くの間現世にとどまることができる。故に、ベルは、自分の召喚主を殺そうと考えていたりする。
召喚が終わり、ベルの体が顕現する。召喚された場所は、かつてばら撒いた自身の召喚魔法陣のうちのひとつであった。
召喚の光が収まり、何もない閑散とした部屋の中には、ベルとベルの召喚者であると思われる少女の二人だけになった。
やることは変わらないと、ベルは少女に向かって歩こうとした。が、久々の召喚であったために、自分が浮いていることを忘れて転んでしまった。転ぶまではいい。それはいいのだが、問題はその後だった。
なんとか倒れるまいと踏みとどまったベルだったが、勢い余って少女と唇を重ねてしまったのである。
(え?あるぇ?これってキス?前世の記憶でもしたことのない、正真正銘のファーストキス?ふぇ?)
こちらも、少女同様、脳内を『?』が支配していた。あまりの衝撃で、ベルはその思考を停止し、自分と唇の触れ合う少女の顔を凝視した。
(え?てかめっちゃ可愛い…何これアイドルに負けないんじゃ…ヤバ…)
前世があるからか、はたまた悪魔故か。ベルは、一瞬で落ちた。自分のファーストキスの相手というのも、落ちてしまった一助となっているだろう。
両者思考を止めてから少し。数時間とも体感できそうだったが、実際はほんの数秒である。まず動いたのは、ベルだった。
「あばっ、あばばば、あ、あの、えと、その…ぼ、僕を召喚してくれたのは、君…かな?」
相当にテンパっていることを自覚しつつ、少女にそう確認する。
「え?あ、は、はい…たびゅ、多分そう、です?」
同じように混乱した様子で、少女はそう返した。
暫く沈黙が流れ、次に口を開いたのは、ベルだった。流石に気まずさに耐えかねたがためであった。
「僕は、君だ呼び出したから分かると思うけど、悪魔だ」
「は、はい…」
「悪魔は基本的に我儘でね。そうだな…腕を出してくれるかな?」
「こ、こうですか?」
ベルは、差し出された腕を、壊れ物を扱うように丁寧に取り、自分の魔力を流し込んだ。これで、目の前の少女に自分の存在を刻みつけることができる。そうすれば、自分はこの少女が死ぬまでの間、現世にとどまることができるようになる。
悪魔が現世に存在するための条件は、なにかしらの形で現世にとっかかりを作ること。そのために多用される手段が契約というだけであって、やりようはいくらでもあるのだ。
「はい、これで契約はおしまい。僕は今からずっと、君と共にあるからね」
「え!?契約ですか?私、なにも対価を支払っていませんよ?」
「いいのいいの。あれ、僕のファーストキスだったんだから」
ベルがそう言う。予想外の言葉だったのか、少女の顔は、真っ赤に染まり上がった。
「わ…わたっ…私も…です」
消え入りそうな声で、少女はそう呟いた。それを聞いてさらにベルのテンションがぶち上がったのは、また別のお話である。
その時、外からいくつかの足音が聞こえてきた。そして、扉が突き破られた。そこから入ってきたのは、三人の男たちだった。ベルは、隣で少女が明らかに怯え出したのを見逃さない。
「ねえ、オタクら。この子に何の用?」
ベルは、次の瞬間には立ち上がり、男たちの前に立ち塞がったのだった。
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