記憶
「これからも続けるのか?」
と、少年は言った。
自分は首を横に振る。
「…そうかよ」
と、惜しそうに少年は言った。
彼が持っているのは、118日目の、満天で、満点の笑顔だ。
絵。
全てで216。
その中の一つ。自分が118日目に描いた絵だ。
全て、自分が描いたものだ。
ただ、溢れた想いが、口から、言葉になって、滑り落ちる。
…
絵の、「彼女」の。
今から、217日前、彼女の命日に。
絵を描こうって、ただの思いつきだった。
…そこから、ずっと。
1日目から217日目まで、彼女を描いていた。
彼女はもう、数年前に死んでる。
病院で。
手術が、失敗して。
痩せて、白くて、長い黒髪が際立つ、煌めく瞳の、素敵な人だった。
一人しかいない、幼馴染みだった。
彼女は物心ついたときには、もう、病院で過ごしていた。
彼女は、カフェに行ったことも、電車に乗ったことも、間近で飛行機を見たことも、無い。
ただ
カフェでさ、お洒落なものをたのんでみたい。
病院の服じゃなくて、そうだな、白い、綺麗なワンピースを着てみたい。
雨の日に、傘をさしてお散歩してみたい。
飛行機に乗って、外国に行って、たくさん…世界を見たいなあ。
そんな、純粋な、想いを、たくさん持ったまま
死んだ。
僕はそれを、ただ、眺めていただけだった。
病室で、よく本を読んでいた。
自分は本を読んでいる彼女を眺めていた。
別に、本を読むのは、好きじゃないと。
きっと、ただ、病室で一人、孤独を過ごすのは、気が狂ってしまうから。
だから、僕がいない間は、ずっと本を読んでいたんだろう。
彼女が死ぬ前日の、手術の前の時。
ベッドの備え付けの机に、本が積み上げられていた。それを、ただ、…何かから、逃げるように、あせって、ページをぐちゃぐちゃに引っ張りながら捲って、気をまぎらわせていたようで。
成功率が本当に低い手術でさ、私、死んじゃうかも知れないんだ。
大丈夫だよ。きっと。
でも、さ、怖いんだ。
私まだ、死にたくない。
死にたくないんだ。
君と生きたいんだよ、私は。
…と。大泣きした彼女の姿が。
こびりついてはなれない、焦げたフライパンの裏、みたいなものでさ。
ずっと、離れない。
笑顔ばっかで、バカなこと言って、弱い体で一生懸命生きていた。
こんな、ぐちゃぐちゃな顔を見たのは、初めてだった。
生きたいと、心から、願っていた。
だから、描こうと思った。
僕の趣味だった絵とつなぎ合わせて。
どうか、生きたかった彼女が、絵の中ででもいい、ただ、想いを叶えられるようにと。
絵の中の彼女は規則的で、実力不足の僕の絵じゃ、映えない。
だから、一日中、ずっとずっとずっと描いていた。
彼女はもっと、笑顔は穏やかで。
もっと、本を読む姿は真剣で、でもどこか、不安そうだった。
ものを眺めるときは愛おしそうに、憧れを込めた瞳で。
ずっと眺めていたのだから。解る。
絵の中で、君がやりたかったことを描いた。
でもその中には彼女一人だ。
僕は、ただ、眺めることしかできない。
住む世界が違うんだ。
もう二度と、同じ世界には降りれない。
…そう思ってしまって、もう。
絵を描くのを、やめようと思った。
やめてしまおうと、思った。
ただ、彼女の名前と同じ日まで、彼女が叶えたかったことを、描きたかった。
そうしたら、やめよう。
終わりにしてしまおうと思ったんだ。
だから、今日で終わりだよ。
ただ、独り言のように、目の前の少年に吐いた。
少年は、僕の子供のような独り言を黙って聞いていた。そして、口を開く。
「お前のそのエゴは否定したくないけど…なあ、現実を見ろよ」
目に写るのは、さっき完成した絵と、少年。
黒鉛で黒ずんだ自身の指先と、指に斑についた淡い色の絵の具、ほっぽりっぱなしのパレットボサボサの筆。
「…家賃も払わないで絵描いて、いい度胸じゃねぇか」
少年は小さい手で小さく指をぽきぽきとならす。
「お前は生きてんだから、金を払わなきゃいけねぇ。飯は?風呂は?生活はどうすんだ?」
いたいところを責めてくるなあ、と、思った。
ずっと、ないがしろにしてきたところだ。
少年は借金取りのように責め立て、そう言う。
借金取りとちがうのは、どこか慈悲が溢れてるように見えるから、か。
きっと、ばれているんだろう。
もう、今日で「終わり」にするつもりだと
「今日で終わり、だ?はぁ?家賃払えよ。お前、一つ、絵を売ったろ?その金でなんとかしてた。でももう、その金も残ってねえだろ」
少年は僕を睨み付けた。
恨めしそうに、でも、何故か悔しそうに。
僕が216しか絵をもっていないのは、一枚目絵を売ったから。
純な瞳の絵だった。
雨を楽しむ彼女の絵だった。
「今日で終わりなら、他の絵を描け、それで売れ、金にしろ、で、生きろ、生きろよ、死んじまったやつのために、幸せになれよ、好きなことしろよ、そのために頑張れよ、死ぬな」
まっすぐに、一直線に、煌めく瞳が、僕に突き刺さった。
彼女の、瞳と似ていた。
生きようと思う瞳に、似てた。
「簡単に終わろうとすんなよ」
と、少年は、言った。
我が儘な子供に、呆れるように。
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