第2話 怒りの爆発――見えない敵への反発

 ある日、彼は駅のホームで立ち止まった。目の前に並ぶ人々の姿が妙に不快に感じられた。彼の視線がその一人の男に止まると、心の中で鋭い怒りが湧き上がる。


 「何を見ているんだ、この男は……」


 何気ない視線を、彼はすべて敵意に感じていた。その男の目がわざと自分を見ていたように感じる。その瞬間、心臓が高鳴り、体の力が急に抜けていく。彼は深呼吸をするが、その怒りをどうしても抑えられなかった。




 彼の心の中で、男の姿が変わっていく。それは現実ではないはずの、自分を狙っている「見えない敵」だ。男の眼差しが不自然に鋭く、次第にその視線は彼を追い詰めていく。


 「お前、俺を見ていたな……いや、違う。お前は確実に俺を狙っている。」


 その妄想が膨れ上がるたびに、彼の怒りは燃え上がる。心の中で見えない敵と戦うことで、怒りは自己防衛の形を取るようになった。見えない敵に対する憎しみが、彼の行動に支配的な力を与えた。




 その日から、彼の一挙手一投足には敵が絡むようになった。通勤電車に乗ると、隣に座った人のにおい、会話の内容、目線、すべてが不安を煽る材料になる。誰かが自分を睨んでいるように感じ、少しでも目が合うと、その人物は自分を「攻撃している」と感じるようになった。


 誰かと目を合わせたとき、無意識に自分の胸が高鳴り、心の中で怒りが込み上げてくる。それは単なる誤解かもしれない。しかし、彼にとってはその一瞬が命取りになるほどの恐怖と怒りに変わるのだ。




 日常生活の中で、この怒りは次第に彼の人間関係を破壊していった。職場で同僚が軽く言った言葉に対しても、彼は過剰に反応するようになった。「あれ?今日は顔色が悪いね。」という一言に、彼は何か悪意を感じ、すぐに言い返す。


 「俺の顔色が悪いだと?」


 彼の中で、他人の言葉や態度はすべて自分を攻撃してくる「敵の言葉」に変わり、その怒りの連鎖が止まらなかった。同僚とのやり取りはだんだん冷たくなり、ついには彼を避けるようになった。同じように家族との関係もぎくしゃくし、誰ともまともに会話できなくなった。




 ある晩、彼はついにその怒りを爆発させてしまった。家に帰ると、玄関のドアが少し開いていた。家族がいるはずの時間帯だが、何も感じない不安と恐怖が彼を支配する。


 「誰かが家に入った……」


 その瞬間、見えない敵が自分の家にまで忍び寄ったと感じ、無意識に冷蔵庫を開けて包丁を手に取る。心の中では「殺し屋」としか思えないその存在が彼の体を支配していた。


 「誰だ、俺の家に……!」


 怒りと恐怖に震える手で、彼は家の中を駆け巡り、目の前の何もない空間に向けて叫んだ。まるで自分を殺しに来た何者かと戦っているかのように。




 怒りがようやく鎮まると、彼は地面にひざをついた。震える手を見下ろしながら、自分が何をしてしまったのか理解し始める。


 家の中は散らかり、冷蔵庫の扉は開けっ放しだった。思わず涙がこぼれる。「誰かが俺を狙っている」――その思い込みは、すべてを破壊し、今や手に負えない現実となって彼を取り囲んでいた。




 その後、彼はカウンセリングを受ける決心をした。心の中で自分を攻撃していた「見えない敵」が、本当は自分自身の心の中の恐れから生まれたものだと理解し始めた。


 「怒りは、恐れから生まれるものです。」


 その言葉に、彼は初めて自分の中の暴力的な衝動を認識することができた。見えない敵との戦いは、実は自分との戦いだったのだ。


 怒りが収まった後、彼は少しずつ人とのつながりを取り戻していく。見えない敵と戦うのではなく、過去の自分と向き合い、恐れを乗り越えることで初めて平穏が訪れた。

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