第3話 憎しみの対象――存在しない「敵」との闘い

 彼が目を覚ました瞬間から、世界は歪んでいた。曇り空の下、誰もいない部屋で、ふとした音に耳を傾ける。時計の針が静かに進む音、外で鳥がさえずる音――それらの音さえも、彼には耐え難い刺激となり、息が詰まる思いがした。


 「まただ……」


 心の中で、誰かが彼を見ている、誰かが彼を監視しているという感覚が、ひとたび芽生えると、すぐにそれは強烈な憎悪に変わった。目の前には誰もいないのに、彼の頭の中では無数の顔が浮かび上がる。その顔は、無表情で、無言で、ただただ彼を見つめていた。彼はそれを「敵」と呼んだ。


 その敵は、肉体を持たない。実体のないものだった。しかし、それを感じ取る感覚はまるでそれが目の前にいるかのようで、嫌悪と恐怖が交錯する。敵が息を潜めているその場所、彼が一歩踏み出すたびに、その目が彼をじっと見つめているように思えた。




 憎しみは、恐怖から生まれるものだと彼は感じていた。彼が「敵」を感じるたび、恐怖が彼の心を支配し、そしてその恐怖が憎しみという形に変わる。何度も何度もその「敵」の存在を頭の中で反芻し、その顔を描いては、それに向かって怒りを放つ。


 「お前が俺を追い詰めるんだ……お前が俺を壊すんだ。」


 それはまるで、心の中にある虚構が彼を捕らえ、現実のすべてをその虚構で覆い尽くしていくような感覚だった。周囲の人々の行動も、全て彼に対する挑戦や無理解、攻撃としか感じられなくなった。彼は、外を歩く人々の笑顔すら、彼を嘲笑っているように見えて、目の前のすべてが憎しみの対象になっていた。




 毎日の生活は、もはや彼にとって戦場そのものだった。通りを歩くたび、隣を歩く人々の顔が「敵」に見え、その視線が自分を捕えた瞬間には、頭の中で無数の言葉が渦巻く。「あいつも、あいつも、あいつも……」 それらの「敵」に対する憎しみは、現実の人々を無関係にしてしまい、彼はその憎しみを彼らにぶつけたくなった。


 電話の向こうで友人の声を聞いたときですら、その言葉が「裏切りの声」に変わる。彼は「どうして俺を理解してくれないのか?」と感じ、やがて友人をも敵視し、無意識のうちに距離を置いていった。すべては、「敵」の存在を拡大し、強化するための材料に過ぎなかった。




 虚構の中で彼が育て上げた「敵」は、もはやただの思い込みではなく、彼の生きるための支えとなった。敵を想定することで、彼は常に警戒心を保ち、そして自分を守るための行動を選ぶ。しかし、次第にその警戒心は防衛から攻撃へと変わり、彼は実際に見えない敵と戦っているつもりで、周囲の人々を無意識に傷つけていた。


 家族との食事の時間に、何気ない一言が耳に入ると、その言葉がまるで鋭い刃物のように感じ、彼は反射的に強い口調で返した。その口調が家族を傷つけ、彼自身がその後悔に悩むことになるが、それでも彼はその繰り返しをやめることができなかった。


 「俺を侮辱しているんだろ?」


言葉を発すると同時に、心の中でその敵を攻撃している感覚に酔いしれている自分に気づく。それが彼の防衛であり、同時に自分を守る唯一の方法だと感じていた。




 憎しみは、もはや外の世界だけではなく、彼自身をも破壊し始めた。彼は仕事を辞め、友人との連絡を絶ち、家族と過ごす時間を避けるようになった。人との接触を断ち切ることが、彼にとって「敵」に対する唯一の防御だと信じていたからだ。


 ある夜、彼は一人で部屋の中にいた。静寂が支配する中、心の中で鳴り響くのは、やはり「敵」の声だった。誰かが自分を裏切り、誰かが自分を攻撃してくる。その恐怖から逃れるため、彼はますますその敵に憎しみを抱き、心の中で攻撃を続ける。


 「お前らは皆、俺を潰しにかかっている。」


 だが、その憎しみが広がるたびに、彼自身の内面も次第に崩壊していった。虚構の中の敵との戦いが現実の世界を無意味にし、最終的には何も残らなくなった。彼の中にはただ、空虚と孤独だけが広がっていた。




 憎しみの対象として存在し続ける「敵」は、もはや自分を守るための存在ではなかった。敵を想定し、憎しみを膨らませることで、彼は自己防衛の壁を作り上げたつもりだった。しかし、現実の人々はその壁に触れることができず、次第に彼の周囲は孤立していった。


 「敵」は自分の内面にしか存在しなくなり、彼は孤独な戦いを繰り返す日々を送ることになる。その戦いが終わることはないかのように感じ、彼はその虚無感に取り込まれていく。


 やがて彼は気づく――憎しみの対象は、実は自分自身の心の中にあったことに。

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