「被害妄想」という心の戦場
まさか からだ
第1話 恐怖の正体――「殺し屋に狙われている」感覚とは何か
彼がその感覚を初めて覚えたのは、会社からの帰り道だった。夜の街はいつもと変わらない静けさに包まれていたが、背後に視線を感じた。何気なく振り返ると、誰もいない。
「気のせいだよな……」
そう自分に言い聞かせ、歩き出す。しかし、足音が聞こえる。自分の歩調に合わせるように、一定のリズムで。心臓が跳ね上がった。
次の曲がり角を曲がる。立ち止まり、振り返る。誰もいない。だが、見えない何かが自分を追い詰めているような感覚が胸を締めつけた。
彼は走り出した。息が切れるほどに全力で。それでも振り払えない。背中に貼りついた視線の感触が消えないまま、自宅のドアを閉じて鍵をかけたとき、ようやく体の力が抜けた。
「誰かが……俺を狙っている」
その確信が、彼の日常をゆっくりと侵食し始めた。
翌朝、目覚まし時計の音で飛び起きる。時計を見ると、まだ設定時間の30分前だった。夢の中で、誰かが自分を監視している光景を見た気がする。
「夢だ……ただの夢だ」
そう自分に言い聞かせるが、汗で湿ったシャツが現実感を否応なく突きつける。
会社に向かう電車の中でも、彼は常に周囲を警戒していた。隣の乗客がちらりと自分を見た――それだけで、心の中に疑念が湧き上がる。
「俺を狙ってるんじゃないか?」
不安を押し殺し、車窓に目を向ける。だが、そのガラスに映る自分の顔が蒼白になっていることに気づいて、再び視線を下に落とした。
数日後、職場でもその恐怖は彼を襲った。会議室で資料を配っているとき、ふと上司が自分を見ていることに気づく。
「何か悪いことをしただろうか……」
疑念が浮かぶと同時に、上司の表情が妙に冷たく見えた。その一瞬で彼の脳内には、映画のような場面が再生される――自分が命を狙われているシーンだ。
デスクに戻ると、手が震えていることに気づく。同僚が話しかけてくるが、会話が頭に入らない。何を話しても、背後で殺し屋が自分の隙を狙っているような錯覚に陥る。
「これはただの考えすぎだ」
何度もそう思おうとするが、夜になると恐怖は増幅する。部屋の窓にカーテンを閉めても、外の闇が自分をじっと見つめているように感じる。
部屋の電気をつけたまま、リビングで座り込む。ソファの背後に何かがいる気がして振り返るが、そこには何もない。
「殺し屋だ……俺を消そうとしている」
その思い込みは、彼の日常の全てを支配し始める。電車に乗るとき、会社の廊下を歩くとき、買い物をするとき。すべての行動が、見えない敵から身を守るためのものになっていく。
彼は次第に、人との接触を避けるようになった。会話をすれば、自分を狙う「殺し屋」が情報を得るかもしれない。誰も信用できない。
ある日、とうとう彼は部屋にこもったまま外に出なくなった。冷蔵庫の中の食料が減るたびに恐怖が増すが、それでも外に出る勇気は湧かない。
そんな彼の元に、一通の手紙が届く。「このままでは、すべてを失う」――差出人は不明だったが、その言葉だけは彼の心に深く刺さった。
その瞬間、彼はふと気づいた。自分が恐怖に囚われている間に、本当に失ったものがいくつもあることを。
数日後、彼はカウンセリングを受ける決心をした。セラピストは、静かに話を聞きながら彼に問いかけた。
「その『殺し屋』は、実際にあなたに何かしましたか?」
彼は答えられなかった。見えない殺し屋が自分を狙うという感覚は確かにある。しかし、その正体は分からない。ただの影かもしれないし、自分の中に潜む何かかもしれない。
「あなたの恐怖は、あなた自身の心が生み出したものかもしれません」
その言葉に彼は初めて、恐怖を直視する勇気を得た。
見えない敵と戦うために作り出した幻想――それが「殺し屋」の正体だったのかもしれない。そして、それを解き明かす鍵は、自分自身の中にあると彼は思い始めた。
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