第3話

 フレディは咳込みながら目を覚ました。花の香りにむせたようだ。


 しかし目を開いてみると、どこにも花などはないのだった。まだ香るほどの花には早い季節。夢であったらしい。とすれば随分と華やかな夢を見たものだ。内容はさっぱり思い出せないが。

 

 陽射しの傾斜角度が変わり、眠る前とは空気が違う。太陽による春の先取りももちろんのこと夕刻限まで。本物の春はまだ遠いのだ。


 いつの間にやら家の中への扉が放たれていた。奥の居間から話し声が漏れている。身を乗り出せば叔母とメアリーアンが、小さなテーブルに向かい合っているのが見えた。


 時計を開き、時刻を確認する。午睡には少々、長すぎたようである。ならば長い夢もみるだろう。


 しかしどんな夢を?

 探りながら居間へ入ると、夫人の弾んだ声に迎えられた。


「あら、おはよう。そろそろ寒いでしょうから起こそうと思っていたのよ」

「話に夢中で忘れていたでしょう。もう充分に寒かったですよ」


「勝手に眠り込んでいてよく言うわ。鍵さえ忘れなければ良かったのよ、あなたが」


 ちゃんと言っておいたでしょう、と微笑まれる。まったくそのとおりなので返す言葉もなく隣の椅子に腰を下ろすと、入れ違いにメアリーアンが席を立った。ポットを手に、


「お湯を取ってきます」


 一言そう言い、走って消える。


「一番動かなくて良い客人が働いていますね」

「お客だなんて思っていないもの」


「娘のようにかわいがっているので。裏返しで用も言いつけられているわけだ」

「えぇ。妹のように、だけれど? フレディ」


 娘――妹……


「そうでしたか」

「そうなのよ」


 齟齬があるとしても微妙なもので、議論に値するものではない。彼はさらりと流して捨てた。


 叔母上との強弱関係ならば、とうの昔に決まっていたということもある。寝起きに負けを予測したというのもある。まだ目覚めは甘く、気の利いたことは思いつけそうになかった。


「ところであなた、気付いていないみたいだけれど」

 

 夫人は勝ち誇るように楽しそうに言う。フレディは最悪なんぞをイメージしながら、その笑顔を見た。


「その服、ひどいわよ」


 皺でも、と見れば、それどころではなかった。上着と言わずベストと言わずシャツまでも、豪快に砂土まみれとなっている。


 仰向けに転んだ覚えなどあるわけもなく、そんなことを思いつく方がどうかしているといったレベルで、明らかに足跡が見て取れる有様。


「……オーディンですね」


 見回すがこの部屋には姿が見えない。


 あなたの猫でしたよね、との意をずっしりと込めて視線を送ると、正しく汲み取ったのだろう、夫人は澄ました顔で言うのだった。


「あんなところで寝ているのだもの。なにをされても文句は言えないわ」


 言い返す間がなかった。部屋の入り口から磁器の不吉な音が聞こえ、二人は顔をそちらに向けた。


 両手でトレイを持ったメアリーアンは、柱に右肩をぶつけた姿で大変にあわてた早口で、


「だ、大丈夫。割れていません。良かった。大丈夫。倒れただけだから」


 トレイが目の前に現れてみれば、倒れたものはシュガーポットだった。もともと狭いトレイの中に、無理に入れてあったと見える。


 メアリーアンはナプキンでソーサーにこぼれた砂糖を掃い、フレディの前にカップとセットで置きながら小さく言った。


「ごめんなさい」

「いや……。気をつけて」


 そんなに縮むほど、叔母は怒っているのだろうか。お気に入りの――そうではないものなどはないのだが――シーベルズのセットだが、割れたわけではないのだし。


 振り返ると彼女は汲み取りにくい真顔で、まっすぐに娘のような妹のような娘を見ていた。そして言うには、


「猫の話よ」


 赤く染まった頬で、メアリーアンは微笑んだ。


「新しいお茶を入れますね」


 調子になにかズレを感じるが、あまり深刻でもなさそうだ。空気は変わらずゆったりと、包まれるようなハイティーだった。フレディは背を椅子に預けた。言葉の一つや二つわからなくとも、


 世の中さほど、深刻なことばかりではないだろう。


 立ち昇る、茶の葉がほぐれる香りの中に、夢の中のあの香を嗅いだ。彼女の香りだ。よく似ている。


 夢の中の花にむせるだろうか。


 どんな花だったのだろう。香りばかりが印象に強く、姿は幻影のようにぼんやりとしている。霧に消し去られる景のように、在ることに間違いはないのだけれど。手の届くほど、すぐ側に。


 どこかで知っている。見たような気もする。色さえも朧に。花びらのかたちが。

 

 考えも無闇に拡がりまとまらない。

 いずれにしても真剣に考えるほどのことでもない。所詮、夢のはなしなのだから。


「気になって嫌だわ。着替えていらっしゃいよ。フレディ」


 彼はごもっともと叔母に肯き、猫足の捺された服を替えに階段をのぼる。後にしてきた居間からは、すぐに楽しげな笑い声が聞こえてきた。追い出された、に近いか? 


 まだご婦人方だけの話は終わっていなかったのかもしれない。せいぜいゆっくり、着替えて差し上げよう。


 踊り場のソファでは、オーディンが毛づくろいに夢中だった。未だこちらの窓からは太陽光が差し込み、丸く最後の陽だまりとなっていた。心地好いあたたかさが、記憶に呼びかける。


 そう、こんな風なあたたかな――


 少しも思い出せないけれど、良い夢だったと思うんだ。


 自分の存在をまるで無視している猫を、フレディはつまみあげて床に下ろした。誰のせいで着替えなくてはならないと思っているんだ、キミは。


 オーディンはひょいと首を曲げてこちらを見上げ、そして階下へと走り去った。


 猫が答えを持っていることを知るはずもない、フレディは彼をともなしに見送り、残りの階段をのぼり始めた。


 その手が無意識に頬におかれているところをみれば、どうやら彼も知っているようだ。彼の何処かは記憶している。


 夢のことも現のことも。


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秘密 ーー猫の証言は伝わらない @yutuki2022

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