第2話
「コンニチワ、オーディン。お散歩帰りなの?」
塀の上を軽やかに歩く白猫に、メアリーアンは軽やかに声をかけた。イエローの瞳はちらりと一瞥をくれ、なかったかのように進んで行く。
平行した地面を後について歩き、ウォーキングにつれて揺れる尻尾を楽しく拝見。
塀を歩くのはどんな気分かしら。
真白な毛並みは優美に流れ、動きは優雅で美しい。
時間に構わず好きに動くことのできる、猫の暮らしは魅力的だった。例えばただ一度だけ魔法を使える力を持っていたとしたら、猫への変身に使ってしまってもいいくらい。
もちろんそれはないから考えることで、もし現実にそんな力が授けられたなら、いったい何に使うだろう?
猫にならないことは確かね。
自分だけの空想遊びに、メアリーアンはくすくすと笑った。そして笑いながら玄関扉の鍵を取り出す。真鍮製のそれはこの家のマダムから預かってきたものだ。
会合の最中(さなか)、ヘンドリックス夫人は同居人である甥のことを思い出した。そろそろ戻る時間なのだが、もしかしたなら鍵を持っていないかもしれないと言う。
――あなた、留守番に戻ってはくれない?
ご婦人方の話に退屈していたメアリーアンは、二つ返事で引き受けた。地域社会の円滑化に関する話題は、とうの昔に片付いていたのである。
延々とゴシップの続くテーブルを離れる口実はなんでも良かった。鍵をしまう時間も惜しみ、手に握りしめたまま、駆け出すように場を後にして、今ここにいる。
扉を開くと、まず足元をオーディンがすり抜けた。住人(猫)の権利主張らしい、余所者(ヨソモノ)は後からついて来い、らしい。
確かに家族外だけれど――と、後に続きながらメアリーアンは不満気に思う。大人気ないとも思いつつ――延べ滞在時間から言ったら、まだ負けてはいないと思うのよ。
ヘンドリックス夫妻のご近所さんとなってから、そろそろ三年が経とうというところ。明るく大胆で機知と魅力にあふれる夫人はなぜか自分を可愛がってくれ、今ではこうして鍵を預けることに躊躇もないほどに親しい仲となっている。
これを光栄と思うからこそ、愛猫とはいえ、昨日や今日(実際には三ヶ月になる頃か)現れた猫に、道を譲るわけにはいかんというものだ。
と、思うけれど。
しかしムキになって追い越すのも、人間として威厳に欠けることは確か。迷ったりあきれたりしながら、メアリーアンは結局尻尾に従い居間を横切った。
再び外が目的地らしい。オーディンは白い手を庭への扉に載せる。
ガラス戸を押し、開かないと気付くと、指示を出すようにこちらを見た。メアリーアンは苦笑しながら鍵を外して、自由への扉を開け放って差し上げる。
そよそよと風が空気をかき混ぜている中庭。かすかに揺れ続けているキヅタの細い枝先を見上げ、戻した目で椅子に座っている彼を見つけた。
なぜここに――と思いはしたがあまり驚きはしなかった。マダムの表情が思い出される。出かけることを言ってはあるけれど忘れているかもしれない。あたり。お忘れだったご様子です。
起きていて声をかけられたなら、もっと驚いたかもしれない。あまりに穏やかな寝顔がおかしくて、メアリーアンはまた笑った。何が起きても寝ていそうだと、そう思ったのだ。
足元でオーディンが輪を描いていた。この椅子のクッションは彼のお気に入りなのである。
「先客がいたわね、オーディン」
聞くときらりと目を光らせて――と、メアリーアンは思ったのだが――、オーディンはひらりと彼の膝に飛び乗り、さっさとそこに丸くなった。
妥協案。あるいは報復かもしれない。それでも彼は一向に気付かずに、正しく寝息を立てている。特技のように深く眠るのよ、と夫人はこう表現をした。
揺らすものとてない深海のように。
見ることの叶わぬ光景だけれど、雰囲気はナルホドそんな風だ。そんな状態の一人と一匹の横に、メアリーアンはしゃがみこんだ。あたたかな宵の正しい過ごし方ね、などと情緒風のことを思う。
暮れようとしている空。名残の太陽の弱い光が、フレディの髪に注いでいた。彼女の身内にはいない金の髪が、きららと輝いている。
初めて会ったときに彼を王子に例えたことは、まだ秘密にしてある。おそらくはこれからも、生涯守り通したいものだ。
はしゃいで誰かに話していなくて本当に良かった。興奮しがちで新しいことなら誰にでも知らせたがる自分がそうはしなかったのは、ただただ街が雪に閉ざされていたおかげに他ならない。天候のことなら神に感謝。危うく恥をかくところだった。
知り合ってみればそんな想像よりももっと、くだけた、と言うのか見た目から思うよりも割合普通の人だった。
礼儀正しいのは人見知りのせいもある。人当たりが良いのも同じ根から派生しているのではないかと思う。
踏み込めば、世話焼きで心配屋で口うるさい、……とまで言ったら言いすぎ――でもない、一般基準に鑑みて。
けれど騒がしく過ぎる毎日の中で隅に追いやられていた記憶の中で、湖の端に佇む彼は、まったく白鳥王子と言った風情だったのだ。あの冬の雪だらけの公園で、寒さを忘れた瞬間だった。
いつかは誰かに話したい。笑わずに聞いてくれる誰かがいれば。
それとも永遠に自分だけの胸に秘めるべき? 幸せの神秘の、人に知られたら毀れてしまう、そんな秘密のできごととして。
視界の端でなにかが動いた。なにか白いもの(サムシング・ホワイト)。一瞬雪かとも思ったが、すぐに彼だと気付く。
オーディンは悠然とフレディの上を歩み、今度は胸の辺りに座り込んだ。太陽が移っているのだ。
「起きちゃったら叱られるわよ? オーディンったら」
しかし覚醒の兆しはないのだった。凄い。まったく気付いていない。
生きているのよね、と六割ほど疑いながら、顔を覗き込む。呼吸はしていた。とても静かに。
……キスしたら起きちゃうのかしら。
お伽話のあの姫のように。
あら? あれは姫だったのだわ。それじゃあダメね。なにか他にもキスが決め手になる物語があったように思うけれど、思い出せない。どんな展開だったのか……呪いが解ける? ような?
根拠もなくフレディなら知っているはずだと確信し、起こしてしまおうかとも考えた。彼の知識は幅広く、本が絡めば得意分野だ。
しかしどうしてそんなことを聞くのかと訊かれた場合、今の自分に場を切り抜ける回答は用意できそうもない。
この人は質問の出所を知りたがるのだ。なんとなくだのふと思いついてだの、言ったところで繕っていることは看破されるだろう。看破。なにやら堅い話になってきた。
誤魔化してはいけないような、嘘は許されないような。今は閉ざされているブルーの瞳が、そういう風に見るものだから。それともいつも自分にやましいことがあるために、そんな風に思うだけであるのかもしれない。
……これは衝動なのかしら。
そう考えている時点で衝動とは言い難い。メアリーアンは理屈屋の一面を持っている。だからさらに考える。
私、この人にキスをしたいのかしら。⇒わからない
きれいな猫に触ってみたいと思うのとはどう違うのかしら。⇒わからない
起きてしまったら、私はなんて説明をするのかしら。⇒わからない
そのあといったいどうなってしまうのかしら。
わからない。
けれど――
ふと真っ白になり、すべてがどうでもよくなった。なんの弾みなのだろう。
だからそれが『衝動』。
メアリーアンは身を乗り出した。
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