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謙一、というのが父親のことだと了解するまで、数秒かかった。そして私は、無意識にこくりと息を飲んだ。父にとってアサヒさんが特別であったように、アサヒさんにとっても父は特別であったと、そういうことだろうか。
「見たらまあ、こんなもんかって。」
アサヒさんは、なげやりに笑ってアップルジュースを一口飲んだ。私も喉がからからだったのだけれど、なぜだか目の前のジュースを飲むという行動すらとれなかった。身体が固まってしまったみたいに。
「……でも、あなたは、私にすごくよくしてくれて、私、あんなふうに話を聞いてもらったの、はじめてだったのに、」
やっぱり散漫になる言葉を辛うじて紡ぐと、アサヒさんは小さく吹き出し、声を出して笑った。
「男の前ではいい顔するのは、女と同じだよ。」
その、男、というのが父を指すのだと、認めたくなかった。
「父は、アサヒさんと……、」
どんな関係だったんですか。躊躇いが強すぎて上手く組み立てられなかった言葉を、アサヒさんは平然と拾い上げて軽く投げ返してきた。
「何回か寝たよ。そのくせ子どもまでいるって言うから、どんななのか気になって。」
「……父が、言ったんですか?」
「うん。」
父が自発的に誰かと会話をしているさまというのが、まず上手く思い描けなかった。それも、特別な存在だったのであろうアサヒさんに、私の存在をだなんて。黙り込んでしまった私を見て、アサヒさんは軽く肩をすくめた。
「一緒に逃げてほしいって言ってきたんだよね。それで、なにからだよって言ったら、女房子供がいるって。」
「え?」
「それも女の子だっていうから、女二人に死ぬまで恨まれるなんて怖くて断ったけどね。」
私は、また、言葉をなくした。一緒に逃げてほしい。父が、そんな熱量のある台詞を誰かに向けるだなんて。
「これでもう、訊きたいことは全部? 帰っていい?」
アサヒさんがアップルジュースをすいと飲み干しながらそう言って、私は半分泣きながら彼を引き留めた。
「待ってください。」
「まだ、なにかあるの?」
「私、やっぱり、」
「なに。」
「あなたのことが、好きで。」
認めるのは、どうしたって怖かった。父と何度か寝たという、男のひと。父はこのひとに、駆け落ちまで持ちかけたという。そんな相手に思いを寄せること自体が、道を外れていると思った。それでも、感情が制御できない。そんなことは生まれてはじめてだった。感情だって自分の脳内で生まれている信号にすぎないのだから、適当に制御ができるものだと思ってきた。
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