じっと路上に立ち、アスファルトに視線を落としながら、店が開くのを待った。本当に待っているのはアサヒさんが来るのを、だったけれど、それを認めるとどうしようもなくそわそわしてしまうのは分かっていたので、店が開くのを待っているのだ、と自分に言い聞かせた。

 そして、丁度店が開く時間、そろそろだ、と、店の方に向き直った私の前に、手入れのいい革靴が一足、立ち止まった。

 「胡桃ちゃん?」

 記憶の中で、何度でも再生しなおした声だったから、すぐに分かった。

 「……アサヒ、さん。」

 顔を上げるのが怖かった。なにもかもが変わってしまっていたら、私はどうしたらいいのか。それでも、あの頃と全く変わっていない、密やかなのによく通る声に押されるみたいに、私は顔を上げた。

 こんなに背が高かったのか、と、まず思った。私はこの人が座っている所しか見たことがなかったから、身長なんか知らなかった。随分高い位置に、小さな顔がある。幾らか年月の痕跡があるにしても、そこにいるのはアサヒさんだった。どこからどう見ても、アサヒさんだった。それだけで、身体を覆っていた緊張がぼろぼろと剥がれ落ち、泣き出してしまいそうだった。なにか、この場にふさわしい言葉を、と探すのに、ひとつも出てこない。

 「……入ろうか。」

 低くアサヒさんが言って、私の肩を手のひらで庇うような仕草で店のドアを開けた。私は、頷いて彼の半歩後を歩くので精いっぱいだった。

 店内の様子は、昔と少しも変わっていなかった。白いテーブルクロスがかけられた清潔なボックス席と、紺色の制服を着た若くて感じのいい女性店員。店員はもちろん入れ替わっているのだろうけれど、そんな感じさえしなかった。

 アサヒさんは、一番奥のボックス席に座った。それは、あの頃と同じように。細長いメニュー表を開くこともなく、アップルジュースを注文したアサヒさんが、私を目で促すので、同じものを注文した。それも、あの頃と一緒だ、と思う。はじめて会ったあの日、私は、大人なのに喫茶店でジュースを注文するアサヒさんに、少し驚いたのだ。そして、アサヒさんが、零れ落ちそうに切れ長の目を細めて、私を見る。そのまなざしに、どきりとした。その目つきが明らかに、9歳の頃に向けられていたものと異なっていたからだ。私だって、9歳のこどもに向けていたのと同じ眼差しを、この年になって向けられると思期待していたわけではない。でも、アサヒさんの目は、明らかに冷たかった。しんと冷え切って、なんの感情も浮かべてはいなかった。

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