「胡桃の好きなひとが誰だか、俺は知らない。でも、いることは確かだよ。胡桃は、そのひとのことだけが好きなんだろ。他の誰も好きじゃないくせに、そのひとのことだけはずっとずっと忘れないんだ。」

 言葉の内容は明らかに私を責めるものだったけれど、深町尚久の声にはやっぱりそんな覇気はない。私は思わずため息をついた。

 「自分のしたことを正当化したいの?」

 「そうじゃない。悪いことをしたとは思ってるよ。正当化できることじゃないっていうのも分かってる。でも、胡桃が全然変わらないのが辛かった。俺、ずっと辛かったんだよ。」

 「変わるって約束でもした?」

 「してない。……してないよ。してないけど、俺が勝手に期待しただけだけど、」

 「だったら変な言いがかりはやめて。」

 「……ごめん。」

 深町尚久は、がくりと首を垂れた。私は自分の夫をじっと眺め、このひとはこんなになで肩だっただろうか、と思った。すべての期待も野心も、滑り落ちていきそうななで肩だ。

 胡桃には好きなひとがいると言われても、浮かぶひとがいないのは本当だった。父親も、母親も、昔寝た何人かの男も、誰のことも私は別に、好きではなかった。ただ、心の中にずっと、ひとりのひとが棲んでいるのは確かだった。そのひとのことを、好きとか嫌いだなんて考えたこともないけれど、そのひとは、9歳のときからずっと私の中にいて、もうきっと会うこともないのに出て行ってくれない。私はそのひとにだけは、全てを話して、全てを分かってほしかった。そんな衝動を、他の人に抱いたことは一度もない。

 「……子供が、できたんだ。」

 ぽつりと、顔を伏せたまま深町尚久が言った。私は、黙っていた。深町尚久と寝たのは、結局あの廃墟みたいなラブホテルでの一度だけだった。私が拒んだのでもなければ、深町尚久が拒んだのでもない。ただ、しなかったというだけ。

 「……産みたいって、言ってる。俺も、産んでほしいと思ってる。」

 「そう。」

 「それだけ?」

 「他に、なにを言えば?」

 「恨み言でもいいよ。なにか、言ってよ。」

 「恨み言なんて、ないよ。」

 本心から出た言葉だったけれど、深町尚久はそうは捉えなかったらしい。彼はほんの少しだけ首を擡げ、彼の方が私に恨みがあるみたいな目でこちらを見た。私は、突き詰めれば私が悪いのだろう、と、胸の中で呟いた。恨まれるのは、私の方だ。愛さず、変わらず、産まず、ここまで来てしまった私が悪い。

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