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結婚して、家を出ていく。そう告げると、父親はただ、そうか、と、呟くように言った。たまたま玄関で顔を合わせた朝だった。母の死以来、食事を共にとることもなくなっていた。
「お父さんとお母さんにできたことなんだから、私にもできると思う。」
皮肉っぽい物言いになったと自覚はしていた。私は、深町尚久を愛してはいない。でも、そんなのはうちの両親だって同じことだろう。それでも母が死ぬまで、二人は夫婦をやっていた。だったら多分、私にだけできないということはないはずだ。
「そうか。」
父親は、またそう呟いた。出勤準備をすっかり整えて、後はもう家から出ていくだけ、というタイミングだった。声をかけられたことを迷惑に思っているのかもしれない。
「大阪には、来週行きます。」
それだけ言って、私は自分の部屋に引っ込んだ。深町尚久の両親へのあいさつは、もうひとりで済ませていた。きっと、なんでこの女は父親を連れてこないのだろうか、と不審に思われてはいたのだろうが、深町尚久の両親は、そんな素振りをまるで見せずににこにこと私と食事を共にした。深町尚久は、こういう家庭で育ったのだな、と思った。私がこのひとたちと打ち解けることは、一生ないだろう、とも。
深町尚久は、結婚式もやりたがったけれど、私が拒んだ。招く人がひとりもいない、と。招きたいひとは、正確にはひとりいたけれど、そのひとの居場所を私は知らない。父は知っているのかもしれないけれど、父の前であの人の名前を口にしたことはこれまでないし、これからだってないだろう。どうしたって、嫌なものは嫌なのだ。悔しいから、という表現が、一番近いだろうか。私だったら、女だから、物理的にはあのひとと結婚できる、父は私よりもあのひとのことをよく知っているのだろうけれど、物理的に結婚はできない。そのことで私は、少しだけ溜飲を下げていた。それなのに、あのひとの居場所を尋ねなどしたら、全てが台無しだ。
ベッドに腰掛け、寒い早朝の部屋の中で、深町尚久に電話をかけた。
「父親には、話をしたから。」
前置きもなくそれだけ切り出すと、深町尚久が口ごもるのが分かった。
「……やっぱり、俺がお父さんに会ったらだめかな。」
だめとか、だめじゃないとか、そんな話じゃない。でも、そんなことを言っても深町尚久に理解はできないだろう。それは、私が彼に、なにも話さなかったからだ。ここまで生きてきた中であったできごとのひとつたりとも、まともに話さなかったから。だから、責任は深町尚久にはない。けれど私は、やっぱりこのひととは、そしてこのひとが生きてきたこれまでの全ての環境とは、決して馴染めないだろうと思った。
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