セックスは、私にとってはなんの意味もないものだ。いつ誰としても同じ。でも、深町尚久にとってはそうではないのだろうと、二度一緒に食事を摂るうちに感じるようになっていた。だから、私はセックスで引きずり降ろしてやりないなんて思うようになったのだろう。この、安穏と陽だまりで生きてきたような男に、そうではない場所を見せてやりたい。それでもまだ、この男はひっそりと微笑むことができるのだろうか。

 「……いいよ。」

 私はそう答えて、机の上を片付け、立ち上った。ここから電車で一駅行ったところに、半分廃墟みたいな、存在を忘れられかけたラブホテルがある。何人かの男のひとと寝ていた頃、その内の誰かから教わった。学校の近くでセックスするなら、そこが目立たないし手ごろだと。そのホテルのひどく寂れて薄暗い雰囲気が、私は嫌いではなかった。だからきっと、深町尚久は嫌いだろう。

 当たり前みたいに私の後ろをついてくる深町尚久は、私が駅まで歩き、電車に乗っても行き先を聞きもしなかった。ただ、やっぱり穏やかな声で、穏やかな内容の話を続けていた。私はその声を、もう聞きたくないと思った。

 一駅で電車を降り、しんと静まり返った真昼の住宅街をただ歩く。深町尚久は、ここまできてようやく、不思議そうに、どこに行くの、と訊いてきたけれど、私は答えなかった。ラブホテルだと答えたら、逃げ出しそうな空気が深町尚久にはあった。

 半分廃墟のラブホテルは、住宅街の中に急に姿をあらわす。灰色の崩れかけたような壁と、小さな窓。一見ビジネスホテルと言われてもまあ納得できるような外見ではあるけれど、外壁には休憩料金の記載がされている。

 「え?」

 私が黙ったままホテルの中に入って行こうとすると、深町尚久が、きょとんとした声を出した。

 「古谷さん?」

 私はやっぱり口を利かずに、視線で深町尚久を促した。ここまで来て躊躇う男ははじめてだな、と思った。これまで寝てきた男は、全員それを目的としていることを隠そうともしないタイプだったから、彼らは黙ってホテルに入って行く私を、都合がいいと思っていたのだろう。私にとっても、その手の男はどこまでも都合がよかった。

 「古谷さん、」

 深町尚久が、私の腕を掴んだ。

 「なに、ここ。」

 「ラブホ。」

 見りゃ分かるだろ、と思いながら最低限の単語で応じると、深町尚久の表情が歪んだ。

 「待ってよ、古谷さん。」

 「待たない。」

 「でも、」

 「待たない。」

 歪んだ深町尚久の顔は、今にも泣きだしそうな子どもに見えた。

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