恋人
生まれて初めての恋人になった深町尚久と知り合ったのは、20歳のとき。彼は私の大学の同級生だった。専攻が同じで、同じ授業をいくつかとっていたので、私も彼の存在自体は把握していた。でも、それだけだった。なんの感情もなかった。ただ、そういうひとがいる、と知っているだけ。だから、授業が終わり、帰ろうと準備をしていたタイミングで声をかけられ、私は内心驚いていた。
「古谷さん、飯行かない?」
四限の、社会学の授業が終わったところだった。彼は多分、緊張していたのだと思う。言葉が若干ぎこちなかった。私は、目の前に立つその男をじっと見上げた。ちゃんと顔を見るのもはじめてだった。名前、なんだっけ。そう考え込んでいると、彼は少し慌てたみたいに、腹減ってないなら、お茶でもいいんだけど、と言ってきた。私はなんとなくぼんやりした気分になった。なにもかもが自分の外側を流れていく。その感覚を、近頃妙に強く感じるようになっていた。
「名前。」
「え?」
「なんだっけ。」
「あ、えっと、深町。深町尚久。」
「……深町くん。」
「うん、」
「いいよ。」
「え?」
「ご飯。」
目の前でうっすら頬を上気させていること男は、私となにをしたいのだろうか、と思った。まさか、飯が最終目的ではないだろう。セックス? 全く話したこともない私と?
並んで教室から出ていくとき、深町くんは小さな声で、この前のグループワーク、一緒になったじゃん、と言った。私はそのことを覚えてはいなかったのだけれど、曖昧に頷いた。
「そのとき、誘おうと思ったんだけど、古谷さん、急いでたみたいだから。」
「……そう。」
多分、次に離れた棟で授業があったとか、そんな理由だろう、私にはそれくらいしか、急いでどこかに行く理由がない。
「本当は、覚えてないでしょ。」
深町くんが、私の顔をそっと覗きこんで、少し笑った。私はぎくりとして、また曖昧に頷いた。
「ごめん。」
「いいんだ。俺、グループワークでもあんま喋んなかったし、古谷さんと喋ったことって、ほぼないし。」
彼の笑い方はひっそりとしていたけれど、そのひっそり加減がアサヒさんとは違っていた。アサヒさんのひっそりは、もっと寂しげで、寄る辺ないような空気が漂っていた。そして深町くんのひっそりには、穏やかな確信がある。多分このひとは、温かい家庭で大切に育てられたのだろう。だからこのひとは、傷付けたらいけないな、と、そんなことを思った。
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