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結局私は、その翌日、見舞いにも行かなかった。母が死んだのだ。
ホスピスの庭で彼と寝た後、私は母の顔を見に部屋へ戻った。母はよく眠っていた。だからレポートを鞄にしまい、家に帰ることにした。なんだかとても疲れていたので、帰ってすぐに私も眠った。夢さえ見ない、深い眠り。その間に父は仕事を終え、ホスピスに寄ってから家に帰ってきて、やっぱり眠ったらしい。私と父は、夜中の電話で起こされた。電話に出る前から相手が誰だかは分かっていたし、動揺は予想していたほどなかった。ホスピスというのが、そういう場所だと分かっていた。
母が危篤だ。
その連絡を受けた私と父は、タクシーでホスピスへ向かった。コートを着ていたけれど、タクシーの中はやけに冷え込んだ。見上げた父の顔は、街灯の反射なのか、青かった。
私たちがホスピスへ到着する前に、母は死んでいた。私はなんとなく、そうだろうと思っていたので、やっぱり動揺はしなかった。野生の獣がそうするように、死とひとりで向き合っていた母。死に際だけ大勢で迎えるなんていうのも、おかしな話だ。父も動揺した様子を見せず、ただじっと、母の白い顔を見下ろしていた。母もやつれたけれど、父もやつれたと思った。
母を看取った医師は、彼ではなかった。このホスピス特有なのか、他のホスピスもそうなのか分からないが、妙に無個性な医師のうちの、別のひとり。そのひとは、アサヒさんには全然似ていなかった。私は父に、彼を見せたいと思った。アサヒさんに似たひっそりとした睫の影や、独特の雰囲気を。
私はベッドの際に立って、もしかしたら、と、ぼんやりと考えていた。もしかしたら、父は今度こそアサヒさんを連れてくるかもしれない。私を連れていくのではなく。だって、母はもういない。障壁となるものはなにもなくなったのだ。
「……お父さん、」
アサヒさんを、連れてきたら、許さない。
自分の内側からそんな言葉が零れそうになって、私は慌てて口をつぐんだ。なんで、許さないのか。私はあのひとに会いたいはずなのに。全然分からなかった。ただ、感情が言葉になって喉からどくどくと流れ出しそうになっているだけで。
父が、ゆっくりと顔を上げて私を見た。私は首を左右に振った。父はそれ以上なにか尋ねてはこなかった。永遠の沈黙の中に横たわる母を挟んで、私と父は、いつまでも黙って向かい合っていた。
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