翌日、三限の授業を切ってホスピスに訪れた私は、いつものように母の枕元にごそごそとレポートを広げた。母は真っ直ぐに天井を見上げていた。その両目には確かに光があって、これまで見てきたどんな母の顔よりも勇ましいくらいだった。私はその母の横顔をしばらく眺めていた。レポートは、やっぱり今日も進まない。

 「……。」

 お母さん、と、呼びかけたいような、呼びかけたくないような、微妙な気持ちだった。

 お母さん、アサヒさんって知ってる? 

 これまで何度でも、尋ねかけては口をつぐんできた問いだった。母は、あのひとを知っているのだろうか。父の不倫にもまるで動じなかった母は、父のアサヒさんへの執着を見ても、やはり動じないのだろうか。

 これまでは、辛うじて保たれている家庭という形が、私の一撃に酔って壊れるのが怖くて口をつぐんでいた。今は、もう長くはない母に残酷な問いをするのは人でなしだ、と思って口をつぐんでいる。

 父は、昨夜もこの部屋にやってきたのだろうか。多分、来たのだろう。父にも家族としての最後の義務を果たす心積りくらいはあるはずだ。ただ、母が花すら飾りたがらない部屋には、人の訪れをはかる手段すらない。

 しばらくすると、母の目がぼんやりと濁りはじめた。私は母が眠りに落ちるまで、じっとその場に座り続け、それからレポート類を置き去りに部屋を出た。ゆっくりと階段を下り、玄関から庭へ出る。その間、ずっと自分で自分に確かめるみたいに言い聞かせていた。

 あの医者は、アサヒさんではない。

 その言葉を頭の中にぐるぐる回しながら、紅葉がはじまりかけた庭を散歩する。庭に出られるほど元気な患者がいないからなのだろうか、庭には今日も人の気配がない。雑木林みたいになった庭の一角に踏み入り、このあたりはどの病室からも死角だろうな、と思ったとき、後ろから声をかけられた。

 「今日も、お見舞い?」

 今日は、その声がかかることを予測していたので、驚かずにすんだ。ただ、振り返って声の主に向き直る。

 「はい。」

 「毎日来ているの?」

 「はい。」

 「学生さん?」

 「はい。」

 今日は彼は、白衣を着ていた。そうして見ると、顔だちなんかはアサヒさんに似ていないと思う。でも、木漏れ日を思わせる睫の影や、身に纏う独特の雰囲気が、どうしてもアサヒさんを思わせる。私はひっそりと深呼吸をし、そして、自分がもう、アサヒさんの正確な顔立ちを思い出せないことを、心の中で辛うじて認めた。

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