彼は、三十代の半ばくらいに見えた。穏やかそうな雰囲気と、妙な無邪気さが同居していた。だからだろうか、いつもホスピスの関係者に声をかけられたときにするみたいに、なににも興味がない顔をして素通りすることができなかった。

 「古谷さんのお嬢さんだよね。」

 「……はい。」

 「時々ここで散歩しているのを見かけて、気になってたんだ。」

 「……そうですか。」

 ひとと話をするのは、久しぶりだった。父とはすれ違いの生活をしているし、母はもうあまり口を利かない。大学で友人なんかもいない。私はここ数日誰かとまともに話していなかった。

 「お母さまの、ご様子は?」

 「死にかけてます。」

 特に深く考えずに答えてから、私はそれが失言であったことに気が付いた。それでとりあえず、いい意味で、と付け加えた。いい意味で死にかけている、という状況が存在するのかも分からなかったけれど。それでも彼は、そう、と、物静かに頷いた。私は自分の失言も忘れて、彼の目尻に落ちる、淡い睫の影に目を奪われた。それは、記憶の中のアサヒさんに似ていた。9歳の少女だった頃、私は胸を苦しくしながら、アサヒさんの目元に落ちる長い睫の影を盗み見ていた。

 「あなたの調子は、どう?」

 彼が真っ直ぐに私を見たから、私は彼に、目を伏せてくれ、もっと睫の影を見せてくれ、と、懇願しそうになった。そんな自分を抑えながら、曖昧に首を振る。母の眼差しに滲む死の影を、恐ろしく思うような日もあったけれど、基本的にホスピスで過ごす時間は平穏だった。心も身体も、昨日と今日の境目が分からなくなるくらい。

 そう、と、また頷いた彼が目を伏せる。睫の影が目尻に落ちる、私はそれを見つめる。短い無言の間があった。私は、どこかから父の、帰ろう、という声が聞こえてくるような気がして、胸が苦しくなった。あの頃私は、父のその声がなにより嫌いだった。不意に、沈黙を破るみたいに、彼が右の腕を私に向かって伸ばした。長い指が、私の髪に触れて、そこから一枚の枯葉をそっと払いのける。考えてみるまでもなく、アサヒさんが私に触れたことは、一度もなかった。

 「明日も、お見舞いに来るの?」

 「はい。」

 「散歩には?」

 「多分。」

 「そう。」

 もう一度彼が手を伸ばし、今度は私の髪を撫でた、ごく慎重に、私の一ミリ外側の空気を撫でるみたいな仕草だった。私は目を閉じて、その感覚をじっと味わっていた。

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