母の死

 母がホスピスに入ったとき、私は18歳だった。大学一年生の、秋。母は冬を迎えることはできないと言われていた。乳がんは、背骨にまで転位していた。父は仕事終わりに毎日ホスピスへ来たけれど、あまり長い時間とどまりはしなかったので、必然的に私が母に付き添うことになった。授業のさぼりかたは、すっかり覚えきっていた。

 ホスピスの部屋は、生クリームみたいな色の壁に、薄緑色のカーテンがかかり、居心地良くしつらえられていた。ここが母の終の棲家になるのか、と、私は毎日病室に足を踏み入れるたびに思った。その感想には、どんな感情もくっついては来なくて、私はそのことに、いつも戸惑っていた。多くのひとはここで死を迎えるのだと、それは母も例外ではないのだと、分かってはいた。クッションや花やぬいぐるみや、そんな部屋を彩るような小物は、なにも持ち込まれなかった。母が望まなかったからだ。母は、一匹の獣がそうするように、静かにひとりで自分の死と向き合っていた。私の訪れは、本当は多分、不要だった。でも、娘の義務として、家族の最後の仕事として、私は毎日時間を作ってはホスピスに通った。

 病室で私は、あまりすることがなかった。病院にいた頃みたいにたくさんの管に繋がれることもなくなった母は、いつだってベッドに横たわり、天井や窓の外を眺めて黙りこくっていた。私は大抵は大学のテキストやレポートをベッドサイドのテーブルに広げたけれど、どうにも集中ができないので、手が動くことはあまりなかった。窓の外には豊かな自然をたたえたホスピスの庭が広がっていて、まだ冷たくなりすぎていない風は、常に爽やかだった。

 母が眠り込んでしまうと、私はサイドテーブルの上を散らかしたままにして、庭に散歩に出た。いつもそこには人の気配がなくて、鳥の声や木々のざわめきを聞きながら、ゆっくり歩くことができた。そうやっていると、大学や父親を含めたこの世のなにもかもが偽物で、しんと静まり返ったホスピスの中だけが真実の世界のように感じられるから不思議だった。

 「お見舞い?」

 そう背後から声をかけられたのは、完全に自分ひとりの世界に浸っている最中で、他人の気配などまるで感じていなかったので、私は驚いて弾かれたように振り返って声の主を見た。

 「驚かせたみたいだね。ごめん。」

 少し微笑みながら言ったその男性の顔には、なんとなく見覚えがあった。このホスピスに勤める、なぜか妙に無個性な医師の内の一人だ。白衣を着ていないので、そう判断するまで数秒間の間があったのだけれど、彼は特になにも言わず、微笑んだまま私を見ていた。

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