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卑怯者、と、母を罵ることはできなかった。さすがに。だから私はただ、首を左右に振って、どうでも、とだけ言った。
「どうでも? あなた自身のことなのに。」
母の声が、微妙に高くなる。珍しいな、と思った。母が感情の色を出すことなんて、めったにない。
「どうでもいいよ。お父さんとお母さんで決めて。」
かなり挑戦的な声が出て、自分で自分に驚いた。どうでもいい。ならばこんなに挑みかかるような声なんて、出さなくていいはずなのに。はじめから、私たち家族に守らないといけない絆みたいなものはなかった。だから、どうだっていい。どうなったって、同じだ。本気でそう思っているはずなのに。
黙っていた父が、こちらを見ている。暗い目をしていた。なんの光もない、木の洞みたいな深い色。このひとはいつもこんな目をしていたっけ、と思ってから、この人の目を近くで見つめたことなんかなかった、と思い到る。最後に近くてこのひとを見たのは、アサヒさんと最後に会ったあの日だ。深い嫉妬に覆われながら、私は隣に座るこの人を見上げていた。
「……胡桃。」
父が、私の名前を呼んだ。そのことすら、随分久しぶりだと思った。
「お父さんは、間違ったことをした。」
父の声はごく低く、地を這うような響きをした。私は、首を横に振りかけた。確かに間違ったことをしたかもしれないけれど、それが父の必死のSOSにも感じられたからだ。
「お母さんと胡桃に、これからのことを決めてほしい。お父さんは、それに従うから。」
私は、ぎくしゃくと頷いた。父が急にかわいそうに思えてきた。このひとは、まだアサヒさんと会っているのだろうか。会っているなら、いい。会っていないなら、あまりにも不憫だ。もしもアサヒさんと知り合ったりしなければ、こんなふうにつまらない不倫騒動なんか起こすこともなく、常の生活に疑問を抱くこともなく、三人で暮らしていけたのかもしれない。
「……お母さんと、話すわ。」
私がそう言葉を絞り出すと、父は安堵したみたいにこくりと頷いた。母は何も言わなかった。それからの食事は、いつにもまして静かだった。普段だって口を切る人がいないから会話なんかないのだけれど、今日がとりわけ静かに感じられるのは、なぜだろうか。
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