父が食卓につき、私と母もそれに倣った。三人で囲む、ごく静かな食卓。こういうのが、父は嫌だったのだろうか。ぼんやりとそんなことを思った。それで、あの感情的な女のひとと。それは多分一種の現実逃避で、あの、私が子どもだった日、父がアサヒさんに向けていた切実な眼差しとは、似て非なるものに感じられた。

 父が、さやえんどうを散らした肉じゃがに手を付けたタイミングで、母が口を開いた。母の唇は渇ききっていたけれど、それはいつもと同じことだった。

 「さっき、清水さんという方から電話がありましたよ。」

 ぴくりと、箸を持つ父の手が止まった。でも、目に見える反応といえばそれだけのことで、父は肉じゃがを取り皿に取り、ゆっくりと母を見て、そうか、とだけ呟いた。せめて取り乱したふりくらいすればいいのに、と、私は思った。それは、母にも言えることではあったけれど。

 「別れてほしいそうです。胡桃は自分で育てると言っていました。」

 母が色のない唇でそう言って、私はなんとなく、背筋をただした。父がちらりと私に目をやる。

 「……そうか。」

 「どうなさるおつもり?」

 母の口ぶりはごく落ち着いていて、父を責めたてるといった感じはなかった。この声を父の不倫相手が聞いたら、また、愛情が少しもない、と、母を罵るだろう。

 「きみは、どうしたい。」

 父が、そう問い返した。

 「きみにも、胡桃にだって、決定権はあるだろう。私にはないよ。」

 「そうですね。」

 父も母も同時に私を見た。味噌汁に口をつけていた私は、味噌汁椀を食卓に置き、軽く肩をすくめてみせた。意見はない。二人の決定に従う。そう示したつもりだ。 

 女の趣味悪いね、と、父に笑いかけたらどんな空気になるだろうか、と、むくむく嫌な好奇心が頭を擡げてはいたけれど、なんとかこらえる。もしも今回話題に上がっている不倫相手がアサヒさんだったとしたら、母も父ももっと取り乱していただろうに、と、他人事みたいに思った。そして、アサヒさんが言っていた、なにもかもが外側を流れて行っている感じがしていた、という言葉を思い出した。その感覚が、ほんの少しくらいは分かる気がした。今の私にならば。

 「胡桃。あなたはどうしたいの。」

 母が半分ため息みたいに問いかけてきて、私は少し驚く。だって、こんなふうに母が私の意見を求めることなんて、これまでなかったから。母には自分でこれと決めた確固たる道があって、私はそれに従って歩くだけ。そんなふうにこれまでやってきたのだ。

 卑怯だ、と思った。これまでずっと、私の意見なんか求めたことはなかったのに、話が厄介になったら、私に責任を被せようとしている。

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