ケン坊

鶴川ユウ

ケン坊

 ケン坊は齢十七にして、病室で息を引き取った。ケン坊の本名は健太郎けんたろうという。健太郎のじいちゃんとばあちゃんが彼をケン坊と呼び、通り名がケン坊となった。

 ケン坊はすくすくと育ち、正義感溢れる少年になった。彼は弱気を助け強気を挫き、皆に好かれていた。

 だが運命とは残酷なもので、ケン坊が不意の病に倒れた時にはもう手遅れだった。


 ケン坊は入院をしてすぐに面会謝絶となり、家族が面会に訪れる以外は一人きりで過ごした。彼の心を慰めてくれたのは、見舞いの手紙だった。ケン坊は年賀状以外の手紙を受け取るのが初めてで、こなれた文章も拙い文章も、何度も何度も読み返した。

 ケン坊は手術中に亡くなった。親友の悠哉ゆうやへの手紙の返事を考えている最中だった。 ケン坊は口達者だが、文章にするのはどうも苦手だ。ああでもないこうでもないと頭の中で添削しているうちに、死んでしまった。


 ケン坊をこの世に引き留めたのは、まだ一通も返せていない手紙への無念だった。

 こんな身体で、どう返事をしようというのか。自分の葬式でケン坊は、泣いている皆の周りをやきもきしながら、ふわふわ漂っていた。

 霊感のある者がいて代弁してくれればいいのに、そう都合よくはいかなかった。


 試行錯誤を重ねているうちに、ケン坊は夢の中でならこの世に干渉できることに気が付いた。

 ケン坊は深い眠りについている人の夢に入り込み、なんとか手紙の返事を伝えた。

 だが所詮は夢だ。

「ケン坊に夢で会ったよ」

 不思議そうに語るじいちゃんは、なんとか夢の内容を思い出そうとしたが、ケン坊の言葉は忘れていた。

「健太郎はいっぱいまくし立ててたけど、なんて言ってたのかなあ」

 親友の悠哉もこのとおり。


 ケン坊は疲れてきて、あの世に行っていいかと思い始めた。しかしながら、ケン坊が夢枕に立ち続けた努力は実を結び、ケン坊は知らぬ間に力をつけていたのだ。

 ある日、ケン坊のじいちゃんとばあちゃんはコタツで餅を食っていた。ケン坊は近くを漂っていた。ふとした拍子に、ばあちゃんが餅を詰まらせた。

 ケン坊は慌てて、ばあちゃんの背中を生前のように強く叩いた。ばあちゃんは餅を吐き出した。

「ばあさん大丈夫かい?」

「はあ……一体何が何やら」

 ばあちゃんとじいちゃんは手を取り合った。

「まるでケン坊に叩かれたようだった」

 それからも似たようなことは起こった。悠哉がスマホに夢中になっていて、電柱にぶつかりそうになった時、ケン坊は彼の首根っこを掴んで止まらせた。

 ケン坊の姿を見た、と悠哉を始めとした友人も話すようになった。

ケン坊は一つの仮説を立てる。自分がこの世に干渉できる力が増している理由は、皆が信じる力なのだ。ケン坊が「いる」と思う人間がいるほど、ケン坊の力は増す。


 ケン坊はこれで手紙の返事ができると喜んだが、なかなかうまくはいかなかった。

 この世に干渉できる時は、皆が危険に晒されている時だけだった。そしてそんな時に、手紙の返事をする余裕はない。

 正義感の強いケン坊は、一度助ければ二度助ける。二度あることは三度も四度も助ける。

 いつしか、ケン坊の住む街には銅像が建てられた。郵便ポストも隣に置かれた。ケン坊が市長の夢枕に立って、銅像を建てるならポストも置いてくれと必死に懇願して、それだけは聞き入れられた。

 ケン坊は信仰の対象となった。生前面識のない他人でも、ケン坊は助けていた。目の前で起こっていることを、放ってはおけなかった。

 ケン坊のいる街は健康長寿ナンバーワンだと話題になり、移住してくる人々は増えた。


「健太郎、お前すごいことになっちゃったな」

 悠哉が子どもと手を繋いで、ケン坊の祠に話しかけた。悠哉は三十になっていた。

「ただのガキ大将だったのに、遠いとこに行っちゃったみたいだ」

『ここにいるけどな』

「パパー、ケン坊さまと話せるの?」

 悠哉は子どもと目を合わせて、頭を撫でた。

「今日も手紙を書いてきたよ。返事、ずっと待ってるからさ」

 悠哉は郵便ポストに手紙を入れて、子どもと立ち去った。

『俺はずっと返事してる! 聞けよ悠哉!!』

 返せない手紙が増えて、無念だけが積もっていく。自分だけ時が止まっていて、ケン坊は虚しくなった。中途半端についた力が邪魔して、あの世にも行けなかった。


 

 時が経ち、ケン坊にはどうしようもないことで、じいちゃんばあちゃん、親や友人が一人二人と先立っていく。皆に心残りはなく、この世に留まらなかった。

 ケン坊の力は、彼の生前を知る者が減るにつれて失われていき、銅像は錆び付き始めた。

 ケン坊の没後八十年が経ったとき、腰の曲がった悠哉がやってきた。悠哉は震える指でポストに手紙を投函し、コーラを供えた。彼は妻に先立たれ、この街で一人静かに暮らしている。子どもの元に行くのは断ったらしい。

 ここ十数年は、悠哉はやってくる。

「健太郎……お前はまだここにいるのかな」

『……』

「あれから何人も友達はいたけれど、僕ぁ健太郎のことが忘れられない。君がずっとここにいる気がする」

『……』

「僕が長生きできたのは、君のおかげだったのかもしれないね」

 悠哉はよっこらしょ、と立ち上がった。ケン坊は反射的にその背に手を添えようとして、止めた。もう触れられないのだから。

「じゃあまた来るね。手紙、読めよ」

『……ああ』

 それっきり、悠哉はもう来なかった。

 死ぬ原因を取り除いていても、人間はいつか必ず死ぬ。その摂理からは何人たりとも逃れられない。

 この世界に一人きりになったケン坊は、残った力をかき集めて、人助けに細々と尽力した。もう手紙を出してくれる者はいない。ケン坊の家はもう更地で、帰る場所はない。


 ケン坊は人知れず働き続け、遂に摩訶不思議な力も尽きた時、夢を見た。

 ケン坊は真っ暗なトンネルの中にいた。身体は漂うことなく、地面を踏んでいる。

 死んでからは夢を見ることがなく、不思議に思っていると、ケン坊を呼ぶ声がある。

「ケ~ン坊!」

「ケン坊!」

「早くこっち来いよ」

 真っ暗なトンネルの出口から、無数の声がする。聞いたことのある声だ。じいちゃんばあちゃん、悠哉……、

 ケン坊は声に呼ばれるように、光りさす出口へふらふらと歩き出した。

「健太郎!」

 サッカーボールを持った悠哉が、真っ白な光の向こうから現れた。十七歳の若い悠哉だ。

「ゆうや?」

 ケン坊は呆然とした。相手に言葉が聞こえている。

 悠哉はケン坊の肩をどついた。

「来るのが遅いよ! みんな待ちくたびれてるよ。サッカーは十一人いないとできないんだから!」

 悠哉はケン坊を置いて走り出す。見慣れた街並みで、あの頃のように駆けていく。

「あのさ悠哉、あの時くれた手紙さ、」

 ケン坊は置いていかれないようにして、懸命に話す。ずっと言いたかった返事なのに、つっかえてしまう。まともに人と喋るのは百年ぶりだ。

「俺が退院したらコーラくれるって書いてたけどさ、俺本当はコーラじゃなくてファンタの方がいいんだ」

 悠哉は驚き、そして弾けるように笑った。

「えっ!? そうだったん? どっちも炭酸で一緒じゃん!」

 悠哉の顔を見ていたら、ケン坊の目からは自然と涙が零れた。

「ちげーって。全然違うから! 炭酸の質が違うんだよ」

「知らんって。もしかして八十年間、ずっとそれを僕に言いたかったの? ばっかだなー」

「うるっせ。つーか言いたいことはまだまだあるし」

 ケン坊は久しぶりに声を上げて笑った。

 幽霊だった時間を脱ぎ捨てて、ずっと話したかった人達の方へ、ケン坊は軽やかに駆けていく。

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ケン坊 鶴川ユウ @izuminuma

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