第5章「運命のアリア」

『後宮からの誘拐』初演の前夜、ブルク劇場は異様な緊張に包まれていた。


 突然の雨漏りにより、舞台の一部が水浸しになっていたのだ。急遽、舞台装置の配置を変更せざるを得ない事態となった。


「これでは音響のバランスが崩れてしまう」


 マリアは顔を青ざめさせた。今までの努力が、水の泡となりかねない。


「何か方法はないのか?」


 モーツァルトも、珍しく焦りの色を見せている。


 その時、エルランガーが駆け込んできた。


「緊急の対策案を考えました」


 彼は新しい図面を広げた。舞台装置の配置を劇的に変更し、むしろ逆手に取って音響効果を高めようというものだった。


「この案なら……」


 マリアは図面に目を通しながら、頭の中で音の反射を計算していく。理論的には可能だ。しかし、大きなリスクを伴う。


「やりましょう」


 マリアの決断に、モーツァルトも頷いた。スタッフたちは総出で、夜を徹して作業に取り掛かった。


 そして、運命の初演の日。


 客席は満員だった。ウィーンの音楽界の重鎮たち、貴族たち、そして一般の観客で埋め尽くされている。


 開演直前、楽屋でマリアは深い呼吸を繰り返していた。


「マリア」


 父が訪ねてきた。


「これを」


 差し出されたのは、一通の手紙だった。


「母が残した手紙だ。彼女は、声楽家としての夢を果たせずに亡くなった。しかし、お前は彼女の夢を超えていく。私はそう信じている」


 マリアは手紙を胸に抱きしめた。目に涙が浮かぶ。


「父様……ありがとうございます」


 その時、開演のベルが鳴った。


 幕が上がる。新しい配置となった舞台に、観客からどよめきが起こる。


 そして音楽が始まった。マリアは、魂を込めて歌い始めた。


 驚くべきことに、舞台の変更は予想以上の効果をもたらしていた。マリアの声は、劇場のあらゆる場所に完璧な形で届いている。それは、科学と芸術の奇跡的な融合だった。


 アリアの最後の高音。マリアは、すべての技術と感情を注ぎ込んで歌い上げた。


 その瞬間、劇場全体が静寂に包まれた。そして――。


「Bravo!」


 モーツァルトが立ち上がり、叫んだ。


 次の瞬間、劇場は割れんばかりの拍手に包まれた。観客は立ち上がり、熱狂的な喝采を送っている。


 カーテンコールで、マリアは涙を流しながら舞台に立っていた。最前列には、誇らしげな表情で拍手を送る父の姿。その隣でエルランガーも、感動に満ちた眼差しを向けている。


 この日、ウィーンの音楽史に新たな一頁が刻まれた。それは単なるオペラの成功以上の意味を持つ出来事だった。伝統と革新の調和、科学と芸術の融合。新しい時代の幕開けを告げる瞬間だった。

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