第4章「共鳴する心」
『後宮からの誘拐』の初演まで、残り一ヶ月となっていた。マリアは毎日、厳しい練習を重ねていた。モーツァルトの書いた曲は、技術的な難度が極めて高い。しかし、それ以上に心を悩ませたのは、父との関係だった。
あの日以来、父は劇場でマリアと顔を合わせても、まるで他人のように振る舞う。その冷たい態度は、マリアの心を深く傷つけた。
「本当に、これでよかったのでしょうか」
ある夜、練習を終えたマリアは、エルランガーに弱音を吐いた。二人は劇場の屋上に座り、星空を見上げていた。
「あなたは正しいことをしている」
エルランガーは静かに答えた。
「音楽は進化するものだ。それは建築も同じだ。伝統を守りながらも、新しいものを生み出していく。それが芸術というものではないだろうか」
その言葉に、マリアは少し勇気づけられた。そして、エルランガーの横顔を見つめながら、彼女は不思議な感情を覚えた。この時代に、こんなにも自分を理解してくれる人がいるとは。
しかし、試練はまだ続いていた。
ある日のリハーサルで、主要な歌手の一人が突然、激しい咳に襲われた。医師の診断では、少なくとも一ヶ月の療養が必要という。
「代役は誰がいい?」
モーツァルトの問いに、劇場中が騒然となった。その役は、技術的に最も難しい部分を含んでいた。
「私の妹を推薦します」
突然、マリアが声を上げた。妹のアンナは、マリアから新しい発声法を学んでいた一人だ。その才能は確かなものがある。
しかし、保守派の音楽家たちが即座に反対した。
「またヴェーバー家の者か!」
「伝統を破壊する気か!」
その時、思いがけない声が上がった。
「私は賛成だ」
振り返ると、そこには父ヨーゼフが立っていた。場内が静まり返る。
「アンナの才能は確かだ。そして……」
父はわずかに言葉を詰まらせ、マリアを見つめた。
「私の娘たちを信じている」
その言葉に、マリアの目に涙が浮かんだ。これが、父からの最初の歩み寄りだった。
その夜、父はマリアを書斎に呼んだ。
「お前の発声法について、詳しく聞かせてほしい」
父の声は、久しぶりに柔らかかった。
マリアは、できるだけ分かりやすく説明を始めた。科学的な原理を、音楽家である父にも理解できる言葉で。そして、なぜその改革が必要なのかを、心を込めて語った。
「私は決して、伝統を否定しているわけではありません。ただ、音楽をより美しく、より多くの人々に届けたいのです」
父は長い間黙って聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「お前は、本当に音楽を愛しているのだな」
その言葉に、マリアは思わず声を詰まらせた。
「はい……父様の教えてくれた、音楽への愛を、私は決して忘れていません」
父の目に、かすかな涙が光った。
「すまなかった、マリア。私は頑なすぎた」
その夜、父娘は久しぶりに、音楽について語り合った。伝統と革新、その調和の可能性について。そして、家族として、音楽家として、互いを理解し始めた。
しかし、最大の試練はまだ先にあった。初演を目前に控え、劇場では思いがけない事態が起きようとしていたのだ。
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