第3章「不協和音」
真夏の太陽が照りつける午後、ブルク劇場では特別な出来事が起ころうとしていた。モーツァルトの新作オペラ『後宮からの誘拐』の配役オーディションである。
マリアは控室で、静かに呼吸を整えていた。彼女の発声法は、すでに劇場内で大きな話題となっていた。賛否両論、様々な声が飛び交う。しかし、その実力は否定しようのないものとなっていた。
「マリア・ヴェーバー」
名前を呼ばれ、マリアは舞台に立った。審査員席には、モーツァルト本人を含む音楽監督たちが座っていた。そして、驚いたことに父ヨーゼフの姿もあった。
マリアは深く息を吸い、目を閉じた。現代の発声理論と、この時代の様式を完璧に融合させた技術。それを、今ここで示さねばならない。
「では始めてください」
モーツァルトの声を合図に、伴奏が始まった。マリアは、まるで魂から湧き上がるような声を響かせた。劇場全体が、彼女の歌声で満たされていく。
観客席の最後尾まで、まるで目の前で歌っているかのように鮮明に声が届く。それは、科学的な発声法と音響の理解があってこその奇跡だった。
歌い終えると、場内は静寂に包まれた。誰もが息を呑んでいる。そして――。
「素晴らしい!」
モーツァルトが立ち上がり、拍手を送った。他の審査員たちも、次々と拍手に加わる。しかし、父ヨーゼフだけは複雑な表情を浮かべたまま、静かに座っていた。
「コンスタンツェ役は、マリア・ヴェーバーに決定した」
モーツァルトの宣言に、劇場内が沸き立った。主役を射止めたのだ。しかし、これは始まりに過ぎなかった。
その夜、マリアは父との激しい口論となった。
「伝統的な様式を無視するような歌い方は認められない」
「でも父様、より良い音楽のために――」
「黙りなさい! お前は劇場の伝統を理解していない」
父の怒りは、想像以上に深いものだった。マリアは、自分の行動が父の音楽家としてのプライドを深く傷つけていることを悟った。
しかし、ここで諦めるわけにはいかない。次の一手は、すでに用意していた。
翌日、マリアはエルランガーのアトリエを訪れた。
「これが、私が考えた音響改良の設計図です」
マリアが差し出した図面には、細かな計算と図解が記されていた。現代の音響工学の知識を、18世紀の技術で実現可能な形に翻訳したものだ。
「驚くべき発想だ」
エルランガーは目を輝かせながら図面を見つめた。
「しかし、これを実現するには……」
「ええ、知っています。でも、小さな変更から始められるはずです」
まず反響板の角度を微調整し、次に舞台装置の配置を少しずつ変える。大規模な改修ではなく、目立たない形での改良を積み重ねていく。それが、マリアの考えた戦略だった。
「手伝わせてほしい」
エルランガーは真剣な表情で言った。彼もまた、革新を求める魂を持っていた。
その後の数週間、マリアとエルランガーは密かに劇場の音響改良を進めていった。夜遅くまで残って測定を重ね、少しずつ変更を加えていく。モーツァルトも、その取り組みに理解を示してくれた。
しかし、ある日のリハーサルで、事態は思わぬ方向に転んだ。
保守派の音楽家たちが、突然の抗議を始めたのだ。
「劇場の神聖な伝統が汚されている!」
「これは許されない冒涜だ!」
騒ぎを聞きつけた父ヨーゼフが駆けつけてきた。そして、マリアと目が合った瞬間、彼の表情が氷のように凍りついた。
「マリア……お前はなぜ……」
その声には、怒りよりも深い失望が滲んでいた。マリアの心は締め付けられるようだった。
しかし、この時、思わぬ援軍が現れた。
「諸君、この改良がどれほどの効果をもたらすか、実際に聴いてみてはどうだろう?」
モーツァルトが、新しく作曲した曲の楽譜を手に現れたのだ。
「この曲は、新しい音響効果を最大限に活かすように書かれている。マリア、歌ってくれないか?」
マリアは決意を固めて頷いた。これが、自分の信じる音楽の価値を示す、最後のチャンスかもしれない。
伴奏が始まり、マリアは歌い出した。それは、今までにない深い響きを持つ歌声だった。音響改良された劇場空間に、彼女の声が完璧な形で満ちていく。
誰もが息を呑む中、マリアは父の目を見つめながら歌い続けた。この歌声に、全ての想いを込めて。
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