第2章「新たなる音色」
モーツァルトとの出会いから一週間が経っていた。マリアは毎日、彼の新作オペラの練習に励んでいた。現代の発声法を基礎としながらも、バロック様式に調和するよう工夫を重ねる。それは彼女にとって、まるで新しい研究のようだった。
「その姿勢のまま、息を深く取り込んでください」
マリアは他の合唱団員たちに、基本的な発声法を指導していた。モーツァルトの依頼で始まったレッスンは、今では正式な練習の一部となっている。
「でも、マリア。その方法では伝統的な歌い方が……」
ベテランの歌手が不安そうに口を挟んだ。確かにその通りだった。マリアの教える発声法は、当時の常識からすれば異質なものだ。
「伝統を守りながら、新しい可能性を探ることはできるはずです」
マリアは静かに、しかし確信を持って答えた。実際、彼女の方法で歌うと、声の通りが格段に良くなることは、誰の目にも明らかだった。
しかし、問題はそれだけではなかった。
「この劇場の音響には限界がある」
マリアは客席に立ち、舞台からの音の反響を確認していた。科学的な観点から見れば、建築構造に問題があることは明白だ。音の反射と吸収のバランスが悪く、特に高音域が客席まで十分に届いていない。
「何を考えているんだ?」
後ろから声をかけてきたのは、モーツァルトだった。彼は最近、マリアの様子を興味深そうに観察している。
「音の伝わり方について考えていました。もし、舞台の構造を少し変えれば……」
マリアは自分の考えを説明し始めた。音響物理学の専門用語は避けながらも、できるだけ分かりやすく。モーツァルトは真剣な表情で聞いている。
「面白い考えだ。だが、劇場の改修は簡単には認められないだろう」
その通りだった。伝統ある劇場の構造を変えることは、並大抵のことではない。しかし……。
「建築家のフォン・エルランガー氏をご存知ですか?」
マリアは、最近知り合った若い建築家の名を出した。彼もまた、革新的な考えを持つ人物だ。
「ああ、あの変わり者の建築家か」
モーツァルトは興味深そうに答えた。エルランガーは、新しい建築理論を研究している異端児として知られていた。
その日の午後、マリアはエルランガーのアトリエを訪れた。彼は30代前半の、端正な顔立ちの男性だ。
「音の反射について、面白い理論をお持ちですね」
エルランガーは、マリアの説明に熱心に耳を傾けた。彼もまた、科学的な思考を持つ人物だった。
「これらの図面を見てください。音の反射角と、壁面の曲率の関係を計算すると……」
二人は夢中で議論を交わした。マリアは現代の音響工学の知識を、当時の技術で実現可能な形に翻訳しながら説明する。エルランガーは鋭い質問を投げかけ、時には的確な指摘をした。
しかし、その取り組みは早くも障害に直面することになる。
「何を考えているのだ、マリア」
その夜、父ヨーゼフは珍しく厳しい口調でマリアを叱責した。
「劇場の伝統を軽んじるような真似は許されない。お前の新しい発声法にしても、度が過ぎている」
マリアは言葉を飲み込んだ。父の立場も理解できる。彼は長年、伝統的な音楽様式を守り続けてきた。その価値観を一朝一夕に変えることはできない。
「父様、私は決して伝統を否定しているわけではありません。ただ、より良い音楽のために……」
「黙りなさい!」
父の声が響き渡った。その瞬間、マリアは思わず体を縮めた。前世では決して経験したことのない、父親からの激しい叱責。その重みが、彼女の心を深く締め付けた。
部屋に戻ったマリアは、窓辺に立って夜空を見上げた。月明かりが、18世紀のウィーンの街並みを優しく照らしている。
現代の知識を持つ者として、何をすべきなのか。伝統を破壊することなく、しかし必要な革新は成し遂げたい。その難しいバランスを、どうすれば取れるのだろうか。
そして何より、父との関係を、どう修復すればいいのか。
考え込むマリアの耳に、遠くの教会から鐘の音が聞こえてきた。その深い響きは、彼女の心に染み入るようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます