第3話 気づいたら失恋していた
***
それからダリウスは店に姿を見せなくなった。どうやら難しい案件に対応するために自ら王都を出立したと、ギルドに所属している冒険者から教えてもらう。
それがどれほど重要な仕事なのかはわからないが、黙って行ってしまったことに胸がきゅっと苦しくなった。
(ダリウスさん……どうしているかしら)
店の忙しさに追われながら、エリカは彼がいつ戻ってくるのか、何をしているのか気になって仕方がない。だが、ギルドに聞いても少し難航しているらしいとしか教えてもらえなかった。
ふと気づけば、王都の木々は赤や黄色に色づき、風が涼しくなっている。彼が急にいなくなったのは夏の初めだったから、もうずいぶん経ってしまった。
乾いた風が吹く中、エリカが店の前で落ち葉を掃いている時だ。
「エリカ。久しぶり」
その声色に、思わず箒を取り落として顔を上げる。
「ダリウスさん!」
数か月ぶりに目にした彼の姿は少しほっそりして見えた。前髪が伸びて目元が隠れ、後ろ髪はやや乱雑に結ばれている。その様子がかえって彼の男らしさを引き立てていた。顔立ちも精悍さに磨きがかかっている。
「お元気そうでよかったです!」
本当によかった、とエリカは口の中で呟いた。もう帰ってこない最悪な夢を見た夜は数知れない。
「君も、変わりなさそうだな」
ダリウスが、外套の裾を翻しながら彼女のもとへやってくる。
「とても大変なお仕事だったんですか?」
「まあ、いろいろあったけど……もう大丈夫だ」
エリカの問いに、彼は苦笑いして答えた。
「あ……ケーキ買っていかれますか?」
「いや。これからまだやらなくちゃいけないことがあるから、遠慮しておく。それより、今日は君に頼みたいことがあってきたんだ」
ダリウスはわずかに目を泳がせる。
「頼みたいことですか? 私にできることなら何でも言ってください!」
エリカはパッと顔を明るくして答えた。
「今度、特別なパーティーを開くんだ。そこで出すケーキをエリカに作ってもらいたい。大事なお客様をもてなすために、君の力を貸してくれないか?」
ダリウスは嬉しそうに目を細める。彼の頼みを断る理由はない。
「私のケーキでいいなら……」
「もちろん。どんなものにするかは、任せるよ。君にも招待状を送るから」
そう言ってダリウスはその場を去っていった。
その背中がまた遠くへ行ってしまうのではないかと、伸ばしかけた手をエリカは静かに下ろす。
「ダリウスさんがお願いしてくれたんだもの。やり遂げてみせるわ!」
エリカは店へ戻ると、店主に事情を話し、しばらく閉店後の厨房を貸してもらえることになった。早速その日から紙とペンを持ってイメージを膨らませるが、なかなかいいアイデアが浮かばない。
「今日は帰ろう」
扉に鍵をかけてエリカは店を出た。街灯はあるけれど夜道は暗い。
「……ダリウスさん、忙しそうだから、クッキーくらいなら食べられるかな」
家に帰る前に、彼女の足はギルドの建物の方へ向いていた。その窓から光が漏れている。
入り口に着くと賑やかな声が聞こえてきた。こんな時間でもたくさんの仲間が集まっているらしい。扉を開けようとして、エリカはふと耳に入ってきた会話に手を止める。
「ついにダリウスのやつ、あの
「そのためのパーティーでしょ。みんなで祝ってやらなきゃ」
それを聞いたエリカの心が凍りついた。
(プロポーズ? 特別なパーティーって……そういうことなの?)
わざわざ個人的に依頼してきたくらいだ、何か大切な意味があるのだろうとは感じていた。
(もしかしてあの人に……?)
いつか見た親しげに話す令嬢が脳裏に浮かんでくる。
「『好き』って言えるかなぁ?」
「全員の前なら逆に覚悟が決まっていいんじゃないかって、言ったのおまえだろ」
仲間同士でどっと笑いが起きる様子に、びくっと肩を震わせ我に返ったエリカは、踵を返して駆けだしていた。
――「好き」って言えるかなぁ?
誰かの言葉が胸に突き刺さる。
(好き……? 好きって、なに?)
冷たい風が肺を満たして、胸が苦しくなる。気づけば両目からぼろぼろと涙が溢れていた。拭っても拭っても止まらない。
ダリウスが結婚したらもうあの店には来ないのだろうか。彼が店に来て何気ない言葉を交わすひとときは、いつの間にか彼女の日常の一部になっていた。
声を聞くだけで、笑顔を見ただけでその日が少しだけ明るくなる気がしていた。
(でも、そんなの……お客様の笑顔を見るのが私の楽しみで……)
そう言い聞かせようとするが、胸の奥がじんじんと痛む。
冷たい風が頬を切り、アッシュブロンドを乱した。
(彼があの人に好きだって言う……? それを私は笑顔で見守るの? おめでとうって?)
その光景を思い浮かべた瞬間、さらに胸が締めつけられる。
(苦しい……涙が止まらない……)
心臓が壊れそうなほど早く脈打っていた。足がもつれて転びそうになる。
(ダリウスさんがいなくても、私は、働いて、お菓子を作って……でも……)
彼がいない日々を思い描こうとしたが、それだけで心が空っぽになるような気がした。言葉にならない虚無感が心を覆い尽くす。
(……好き。私は、ダリウスさんが好き……だったんだ)
その言葉が胸の中に落ちた時、溢れる涙はさらに止まらなくなった。
(だけど、もう遅いわ。彼は他の女の人にプロポーズをしようとしているんだから)
涙が頬を伝う感覚さえ忘れ、エリカはただ走り続けた。
夜空に浮かぶ下弦の月だけが、彼女の孤独を静かに照らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます