輝き
珊瑚水瀬
輝き
ある晴れた日の朝、僕は通販で頼んだくつを玄関で受け取った。新調した革靴を出して新しい靴特有の皮のスモーキさを鼻孔で味わいすーっと吸い込みそのまま脳内へと取り込んだ。そうしているうちにこれを履いて外出したい衝動にかられふらりと外に出た。
散歩している僕の目に飛び込んできたのは、丘一面のたんぽぽの絨毯だった。黄色と白色のコントラストが一つの模様を作っているみたいにたまに揺れる。さわさわと体に触れる春のぬくもりがやけにしおらしく、僕にまとわりつく。ふわふわと心をくすぐる幸せの香りは、僕の空っぽな何かを幸せの色に変えた。
「ママ!みて、たんぽぽが咲いてる!」
後ろの方から大きな声とともに小さな駆け足が近づいてきた。それを追うように母親のコツコツと高く響く足音が、声とともに近づく。黄色のヒマワリのワンピースを着たその小さな子がタンポポの絨毯に紛れると彼女自身もタンポポになってしまった。
僕はふっと微笑んだ。
「こら!つむぎ!汚れるでしょ」
「でも、綺麗だよ」
「そんなのどこでも見れるでしょう!」
母親はその子を無理やり土から引っこ抜くと、その子の手を軽くつねった。
その子は痛いともかゆいとも何も言わなかった。彼女からするとそういったことは日常茶飯事なのだろうか。
ただ、自分の手ではなく、名残惜しそうに黄色の仲間たちを見つめて拉げた。
土がついた洋服に母親は頭を抱えながら、クリーニングかしら。この服まだ買ったばかりなのにどうしましょうと、ぶつぶつとつぶやきながらタンポポの丘を去った。
ああ、一言だけでいいのに。
綺麗だね。と言ってあげるだけでその子は枯れなくて済むのに。
その子に世界は綺麗だと教えてあげられるのに。
花も君も生きていることを教えられるのに。
僕は口をゆがめて笑った。
ふと空を見上げると空はあの日のように青く澄み渡っていた。一点の曇りもない青いキャンパス地。この美しさも黄色の絨毯もいつだって変わらずそこにあるのに社会の表情は無情にも移り変わる。
「綺麗だね」
僕にもかつてそう言ってくれた人がいた。
その時僕は大学3回生だった。周りはやれサークルだ、やれ資格試験だ、やれインターシップだと自分の将来のために猪突猛進だった。この路線に乗り遅れると何十年も後悔するぞと言わんばかりに必死の形相で自分の価値を高める。
というよりは、みんな社会への評価のために必死だった。
そんな中、僕はどうしても社会化ベルトコンベアーに乗ることができず、ただ怠惰に学校に行ってはごろっとするような生活を繰り返していた。どこかに社会に反抗する気持ちがあったのかもしれない。そのうちアルバイトのお金も底を突き、趣味もない僕はただ一人、することもなく学校の食堂の窓から映る桜の巨木を眺めていた。
「今日も行くか」
樹齢100年とも言えるこの木は学校の数少なこの学校にある緑化と言える場所だった。僕はこの場所が好きだった。だから、たまに訪れるたびに、今日もでかいなと言わんばかりに手を触れる事を是としていた。
その日もわずかの銭で買った残り少ないアイスコーヒーをちびちびとすすりながら、蚊帳の外から周りの寸劇を今日もいつもと同じように見つめながらその根元に座った。
「ねえ、綺麗だね」
ふと僕の隣に座った髪の長い茶髪の女の子が話しかけてきた。
「え?」と聞き返すと「空。青い布で世界を張り付けているみたい。そのまま落ちてしまいそう」
その子は指を差し、僕を見てもう片手でピースをしてへへと歯を見せて笑った。
空と地上が真反対になってしまった危うさを感じるほどの青青さ。それはまさに青いキャンバスの様で見事だった。僕は今まで何度もこの席に座ったが、初めて空を見上げたようだった。
何も言い出せない僕に彼女は続ける。
「この世界は輝きに満ち満ちているの。私はその世界で私の感じたことを精一杯の言葉で表現したい。でもね、私は私。あなたはあなた。
どうやってもその感性は私から抜け出してあなたに憑依することはできない。だから私は言葉を使うの。世界の美しさに気が付いてほしい。生きているすばらしさを全身で感じてほしい」
その子の瞳は、精錬とした輝きを放っていた。どこにでもいそうな女の子はどこにでもいない輝きを持って僕の前に現れた。
「変な人」
僕は恥ずかしさも相まって憎まれ口をたたいてしまった。
「へへ」
その子はその言葉にさえ嬉しそうに口元を抑えた。
――もっと世界を知りたい。この人を知りたい。
僕は柄にもなく連絡先を交換し、彼女と沢山色々な場所へ行くことを提案した。
無趣味な僕が初めて何かをしようとした瞬間だった。
彼女は、さくらと言った。
彼女の名前は彼女にぴったりだった。
温かくて春を感じるピンクのほっぺと色素の薄い茶色の瞳。
軽やかに駆け回る色白の足。はらはらと散っていくような儚さを彼女は持っていた。
「ほら、見て」
僕は、彼女と世界を見た。寸劇でない世界。夕焼けの曖昧な絵の具の飛び散り。夏が近づく声。秋の涼しげな葉の香り、冬のキシキシ雪を踏みしめる音。
五感の全てを使ってこの世界を感じた。ああ、これを知っていれば僕は生きていける。たとえこれからベルトコンベアーの中へ入れられてもこれを忘れない限りきっと世界を好きになれる。社会と世界は一緒だけど別なんだって。社会は無常に変わっても世界はずっとそこにあり続ける。美しさとともに。
「私、もう君と出かけられない」
ある日彼女は帰り道、僕にそうつぶやいた。
好きな男でもできたのだろうか。僕はそんな不安を抱いたが、僕に問いただす権利はないだろうという思いが僕ののど元に引っかかってそのままごくんと飲み込むことしかできなかった。
「でも、きみと歩いた日々は絶対に忘れない。私はいなくなってもきっと私はいる」
さくらはぽろぽろと大粒の涙を性懲りもなく流し続けた。
僕はそんな様子にハンカチをさっと差し出せたら最高なのだが、鞄の中に入っているのはごみとしなびたチョコレートとスマホだけだ。
他になすすべもなく咄嗟に僕は彼女を抱きしめた。
僕の手の中にいる彼女は少しふわふわ柔らかくて、桜の甘く切ない香りが僕の鼻孔をくすぐった。
彼女は、僕を拒否するでもなく、そのまま僕の腕の中にいた。
嗚咽が少し落ち着いたころ彼女は静かに言葉を綴った。
「アイスコーヒー、アイスコーヒーばかり飲むのは体に悪いよ」
その言葉を言い放つと彼女はポンと僕を突き放した。
「元気でな」
オレンジジュースの甘いところを煮詰めて凝縮したような甘酸っぱくて爽やかな泣き笑いだった。
まあ、明日も何かしら連絡はあるだろうと高をくくってさくらを追いかけなかったのは、僕の運の尽きだった。
彼女はその日から本当に消えてしまった。
連絡をいくらとっても何も返事も帰ってこない。
僕の中ではどうしてと追いかけなかったんだと後悔が頭の中を埋め尽くした。彼女はその言葉通りその日から消えてしまったのだから。あの木がスタイリッシュな景観を阻害するとの理由でなくなったのと同時に。
春学期が始まり、彼女の学部と同じ人に聞いたが、そんな人はいない。思い違いではないかと怪訝そうな顔で僕を見た。
僕はもう連絡のくることのない携帯を握りしめることしかできなかった。
そのとき、一通の連絡が僕の携帯を照らした。
「まえをみて。わたしはいつもそばに」
突然のことに驚き、僕はすぐさま顔を上げた。
いや、彼女はどこにもいないではないか。何かの打ち間違いなのかと彼女に何か返信しようとした時、次のメッセージが届く。
送られてきた言葉は、「せかいに」だった。
僕はこの見慣れているはずのキャンパスを見渡した。何もない。
風のにおい、木々のざわめき、緑のコントラスト、僕を食堂から見守ってくれていたピンクに儚く散る桜の巨木の切り株、まだら模様の雲から見える澄み渡ったセルリアンの空――。
ほら何もどこにもさくらは存在しないじゃないか。
――違う。
僕はあることに気が付いた。以前の僕は今の様に世界を見て感じただろうか。
光が闇が空気が匂いが色が全部全部僕が昔見知っていた景色と大違いだ。
はは、はは、なんだ。いるじゃないか。ここに。
僕は自分を自嘲する声とともに目がかすんで前が見えなくなってきた。
そう、彼女からもらったのはこの世界のまごうことなき美しさだった。
彼女が感じている景色を既に僕は手に入れていたのだ。
この世界の映り方こそ彼女と共にいる証だった。
彼女は今年もこの世界に色づいて咲いている。
可愛くけなげに咲いているたんぽぽのわたげを一つちぎると僕は先ほどの親子へ話しかけるために走り出した。
輝き 珊瑚水瀬 @sheme
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