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「手紙の前に、ブログへコメントしたことがあります」
自己紹介もそこそこにわたしがそう云うと、テイラーははじめ何を云っているのかわからない様子で、それからはにかんでみせた。「そう云えば、そんなこともやっていました」
「更新は、すっかり止まっているようですね」
「編集用のログインパスワードがわからなくなったんです」
蓋を開けてみれば、単純な理由だった。
イアン・テイラーはフラグスタッフの住宅街、天文台へ通勤していた頃と変わらない一軒家に暮らしていた。あの丘に、四十年以上通っていました――二階のテラスからテイラーは、天文台の方角を指さした。同居していると云う娘夫婦は一階で、引退したはずの父を訪ねてくる若者を気にするようでもなかった。大学での教え子と思われているらしい。
テイラーはテラスの端から椅子をふたつ持ってきて並べた。日中はよくそこで過ごすと云う。「幼い頃は、ここからよく天体観測もしていたものです」。テイラーの針金のように細い四肢は、いつもぴんと伸ばされていた。
傾いた午後の陽が、季節の寒気を暖める。
「さあ、はるばるボストンから、火星に最も近い街へようこそ」
「それなら、ヒューストンの方が近いのでは?」
「物理的には、そうかも知れない」テイラーは眼鏡をかけ直す。「しかし、ローエルは火星を観測することによって、火星に行ってみせたわけです」
「でも、火星運河説は、結果として誤りだったんですよね」
テイラーは頷いた。
「コロンブスだって、この大陸をインドだと思い込んだんですよ」
その表情から、彼があくまで冗談を云っているのだとわかった。
「パーシヴァル・ローエルの人生には謎が多いんです。著作を幾つか残していますが、総じて誤解が多く、議論もしばしば混乱していて、自分が何を考えていてどんな行動を取っているのか、自分でもよくわかっていなかったらしい。なぜアジアを旅したのか、旅から帰還したら、どうして火星に興味を持ったのか。『火星への旅』のタイトルが発見されたとき、彼が結局は作家になりたかったのではないかと云う者もいましたね。あくまで天文学者だった彼は、自由にフィクションをものすわけにはいかなかった。近代への急激な変化に追いつかなかった、と云う大きな流れで捉えることもできます」
しかしどうであれ、不幸なことです、とテイラーは溜息をついた。職場の創設者のことを知っておこうと思い、軽い気持ちで調べると、彼の人生を洗い直すことになったと云う。
「彼はずっと何かになり損ね、いつも何かを見間違え、ひたすらどこかに行き損ね、しかし、なり損ねたことも見逃したことも行き損ねたことにも、気づくことがなかった」
発見されていない『火星への旅』の草稿は燃やしたのではないか、と云うのが彼の説だった。
「見つからないからですか」
「わたしなら燃やすからです」
これは、冗談かどうかわからなかった。
「『火星の旅人』と『火星への旅』は、関係がないんじゃないかと思います。父が亡くなってから、わたしも調べてみましたが……。断片的に語った内容からすると、ローエルの著作を下敷きにした火星像ですが、時代が離れているし、何より、刊行もされていない小説を原作にして、ラジオドラマが作れるわけがない」
「草稿が実は、別の人間の手に渡っていて――」
「それがラジオ脚本家のところにたどり着いた?」テイラーは、突拍子のないことを質問する教え子に向けるような、説諭の眼差しで云った。「もしそうなら、物語自体が途方もない旅をしたことになる」
「友人とも、そんなことを話していたんです」
――何か、『火星の旅人』と云う共通のお話が細々と受け継がれている、と考えた方がいいんじゃないかな。
テイラーのこたえは、ロビンのそれと図らずも一致した。「でも、きみの目的は、『火星の旅人』の音声そのものでしょう」
その通り。物語の出処をたどっても、音声にたどり着くわけではなかった。それならなぜ、テイラーのもとをこうして訪ねたのか――手掛かりが見つかる可能性があるから? 音声はわからずとも、内容は知ることができるかも知れないから?
違う。わかっていた。テープさがしはわたしのなかで、『火星の旅人』さがしに変わりつつある。
「『火星の旅人』を聞いたと云うひとはみんな、火星に憧れています。ロビンの母も、あなたのお父さんも、わたしの父も」
「わざわざタイトルを挙げるようなひとは、みんな火星に憧れているから、と云うこともできます」
「もちろん、バイアスがある。重要なのは、彼らが『火星の旅人』を聞いて火星を求めたように、わたしは『火星の旅人』そのものを求めている、と云うことです。彼らが聞いたものをわたしも聞きたい。そうして――」
そうして?
「――彼らのことを知りたい」テイラーが引き継いだ。
わたしは頷いた。テイラーは、「わたしも知りたいですよ」と言葉を漏らした。
「父が、どんな物語を持って生きていたのかをね」
話すうちに、風が出てきた。陽がもうすぐ落ちる。夜になれば星が見えるだろう。地方都市の冬は空気が澄んでいた。一階から娘夫婦が、テイラーに呼びかける。赤ん坊の泣き声も聞こえた。
「夕食の予定は?」
「いまのところ、ありません」
「それじゃあ、ご一緒しませんか。きょうは娘がミネストローネを作ったようだ。あの子は料理人なんです」
天体物理学とは縁遠い子ですよ、と云ってテイラーは片目を瞑った。
宿に戻ると、わたしはラップトップを開いて、テイラーのブログを読み直した。『火星の旅人』は、人類から見た火星の物語だ。しかし火星人のことをイアンの父――モーリスが話すことはなかった。
――いまは、本当に登場しなかったのではないかと思っています。
食事中、テイラーがそう付言した。家族に、父親のことを語って聞かせたあとのことだ。
――『火星の旅人』は、おそらく火星人との交流の物語ではない。『宇宙戦争』との決定的な違いはそこにある。火星はあくまで、新たなる土地、見たことのない風景として描かれた。そこにある文明との接触は問題ではない。
――なんだか、フロンティアとパイオニアみたいな話。
いつもの決まり切ったやり取りなのかわからないけれど、娘のカリンが述べたその感想に、テイラーは眉を上げて反応した。
――その通り。だからわれわれの、祖先の話でもある。
わたしは訊ねた。――じゃあ、『火星の旅人』はアメリカ建国神話の比喩なんですか?
――そう決めつけることはできない。もしそうならば、火星はひとのいない荒野として語られるはずだから。運河なんて存在しないはずです。
無辺に広がるフロンティア――むしろそれは、現実の火星に近いだろう。
――何より、『火星の旅人』が単なる比喩の物語ならば、わたしの父は決して魅了されなかったでしょう。
幼い父を魅了したのは、火星の風景そのものだったのだ。
そこで、気になることがあった。
――モーリスさんも、ローエル天文台ではたらいていたんですか。
――いや、父は長年、UCLAで教鞭を執っていました。眼が良くなかったから、観測そのものには参加しなかった。その代わり、得られた数字から厖大な考察を残しています。ああ、でもキャリアの終盤は、故郷のアリゾナに戻って、アドバイザーを務めていたかな。
――ここが、故郷?
――フラグスタッフではなく、フェニックスだけれど、アリゾナと云う意味では、ここです。
わたしたちの故郷はここね、とカリンがウインクした。
わたしの故郷は、ボストンだ。ボストンのダウンタウン。パーシヴァル・ローエルが棄てた町。では、父は? 断片的に聞いた話を思い出す――西海岸に職場を得た母と、まだ青年だった父は出会った。三十年前の夏。ロサンゼルスのドーナツショップ。父の出身は、そう、確か、カリフォルニアの田舎町。その町を棄てて、彼は東海岸にやって来た。
ラップトップを一度閉じ、また開く。ナプキンに書いてもらったアドレスはすでに憶えている。ロビンにメールで訊ねると、その夜のうちに返事が来た。
――ママもわたしも、生まれも育ちも、LAだよ。
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