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 パーシー、パーシー、

 ローエル天文台に問い合わせると、イアン・テイラーは昨年退職したとのことだった。現在はアリゾナの州立大学で非常勤講師を務めていると云う。大学のWEBサイトを通じてメールアドレスを知ることができた。担当している科目は〈教養としての宇宙開発史〉。講義実施要綱にはローエルの名もあった。

 ボストンからフラグスタッフはあまりにも遠い。直接会うとすれば長い旅になるだろうし、母の喪で半月の休職期間をすでに得ていたわたしがすぐにまた休暇を取るのは躊躇われた。何より秋学期も終盤に差し掛かって、わたしは数字の入力と確認に追われていたのだ。

 ――パーシヴァル・ローエルは十九世紀の終わりから二十世紀のはじめに生きた、ボストン出身の天文学者だ。

 煩雑で多忙な数字とデータと書類の日々を通り越した頃、アランから封筒が届いた。カセットテープはどうも見つからないようだと詫びたあと、雑談としてローエルのことを語っていた。

 ローエル家はボストンの名家として知られている。知られているだけ、とも云える。わたしにはこれまで興味がない話だった。十九世紀の名門など、二十一世紀のダウンタウンには名前だけしか届かない。ましてや天文学者に転向して南西部に去った男のことなど、知っているはずもなかった。

 

 ――パーシヴァル・ローエルはアメリカにおける、火星運河説の有力な提唱者だった。自分で立てた天文台から、彼は火星に運河を見たのさ。もちろん彼の説はマイヤー号の探査で否定され、こんにち彼の業績はもっぱら、天文台の設立と冥王星の存在予測によってのみ知られている。

 ――冥王星プルートウ。P・L。パーシヴァル・ローエル。洒落じゃない、本当にその名に因んでいるんだ。

 ――金持ちの息子の道楽だったと云えばそれまでさ。火星の探求者、冥府の王、いずれも少々荷が重いあだ名であることは間違いない。第一次世界大戦下の欧州旅行に出かけて、以来失踪したのは、事故かも知れないし、一種の逃亡だったのかも知れない。どうであれ憐れな話だ。

 しかしローエル天文台はその後、火星研究の最前線になる。間違いから出た真実。虚構から生まれた現実。その存在を予測した冥王星がのちに見つかったように、火星に運河が建設される日もそう遠くないかも知れない。

 前置きが長くなった、とアランはまた詫びた。

 ――ウェルズとローエルは生前に親交があった。『宇宙戦争』の想像の源泉に、ローエルの著作があったことはよく知られている。おととしにウェルズの書簡集がまとめて刊行されてね、気になって今回読んでみたら、面白いものを見つけたよ。

 手紙には、複写されたウェルズとローエルの往復書簡が同封されていた。

 ――昨年、蔵書を整理したときにカセットは紛失したのかも知れない。これがテープの代わりになるとは思えないが、きみの関心を多少なりとも満足させるものであるならば嬉しい。

 書簡の出処は、意外にもわたしがはたらいている大学の図書館だった。ローエル家が寄贈した文書の山に埋もれていたと云う。寄贈時点で紙魚の浸蝕が酷く、大部分が判読できないけれど、ふたりの手紙のやり取りは、主として互いの著作への感想によって構成されていた。

 返信に数ヶ月、ともすると一年以上間を開ける、息の長い往還だった。



 『タイムマシン』を拝読しました。遙か遠くの土地への旅は誰もが憧れるものであり、わたしも若かりし頃は極東の旅に出かけたものですが、あなたの小説ではその旅の目的地が、時空的遠隔地に設定されていることが……

 ……未来。まだ我々が見ていない新天地を……

 もしも矢印を、逆に向けたなら……


 ……〈火星〉の書評をさきほど書き終えたところだ。あなたの火星観察は、わたしの知的な想像を大いに刺激した……

 火星に文明が存在することは決して荒唐無稽な想像ではなく……


 わたしは火星を、これから人類が向かうべき土地としてしか考えたことがなかった。あなたの知性はわたしの観察から逆の想定を引き出して……

 ……恐ろしい小説です。火星の運河への見方が、まったく異なるように思われ……しかし、大いに昂奮し……

 ……もしもわたしにあなたのようなロマンスの才能があれば……


 ヨーロッパを巻き込む戦争にわたしは心を痛めています……


 ……わたしは忙しい。あなたと会う余裕は……


 ……この戦争は人類にとって最後の戦争になるだろうとわたしは考えている……


 小説を書きました。題は『火星への旅』とするつもりです。


 ソファのスプリングを軋ませてわたしは跳ね起きた。タイトルは偶然による近似だろうか。それとも? 遙か遠くの土地への旅は誰もが憧れる――もちろんそこには、火星も含まれているだろう。

 突然現れたの可能性に、わたしはアランの願い通り興味を惹かれた。けれど次のページ、ウェルズからの最後の返信は、少々落胆させるものだった。



 率直に云って退屈です。あなたに小説家の才能はない。



 にべもなかった。ローエルからの返信は収められていない。そもそも存在するのかさえわからないと云う。内容からして、ふたりの親交がここで途切れたとしても不思議ではなかった。

 ――『火星への旅』は刊行されることなく終わったようだ。草稿の類いも発見されていない。

 書簡の編纂者はセクションをそう結んでいた。手紙を受け取った翌年にローエルがヨーロッパへ渡り、行方を眩ましたと云う顛末は、そこに記されていない。一九一六年。戦争がはじまって長く、けれど終わりがまだ見えない時代。

 テイラーに宛てた手紙を、わざわざ紙でしたためたのは、その夜のうちのことだ。

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