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パトリシア・グッドウィンです、と名乗ると、禿頭の男は頷いて右手を伸ばしてきた。握手を返すと、眼前の人間の手を走査でもするように、彼はわたしの右手をしばらく見つめた。つい癖でね、と男は笑う。「親父は手から相手がわかると云っていた――昔かたぎの玩具職人だよ。もっとも、ぼくは手から人相などわかったことはないが、癖は抜けない」
禿頭をぱちんと叩いて、男はスツールに腰を下ろした。ホテルのロビーは賑わいながらも席の間隔が離され、プライバシーが確保されている。伝統と格式に従う、嫌味にならない余裕がもたらす、柔らかな座り心地がわたしには慣れなかった。彼の云う通り。スプリングの壊れたソファに慣れきった習性はそうそう抜けない。
「ダニエル・アランはペンネームです」と男はようやく名乗った。「本名はサラゼン。ダニエル・サラゼン。移民ふうの名前は、ぼくの作風には合わないとエージェントに云われてね」
「実際、移民系なのですか?」
「祖父がミラノ出身で、子どもの頃にこの国に移住したらしい。それ以上のことじゃないさ。ぼくはイタリア語なんてこれっぽっちも話せない。ミラノを訪ねたこともない。文化も言葉も、書く文章もすっかりアメリカだ」
「だからペンネームをつけられた、と」
「異論はなかった。こだわりもないし、名前なんて好きにつけていいんだから」
アランは伯父の名前でね、と教えてくれた。WEBのフリー百科事典にも載っていない情報だった。
「書く小説も、古き良きサイエンス・フィクションを意識している。無国籍ふうと云うこともできるし、アメリカ的と云えばそうかも知れない。ウェルズは知っているだろう?」
「オーソン・ウェルズですか?」
「H・G・ウェルズの方だ」
『宇宙戦争』の原作者だ、と思い当たる。同題のラジオドラマの方は、『旅人』を調べる過程で行き当たり、内容を聞いたけれど、原作の方は手に取ってこなかった。
「あまりピンときていないかな。そもそも、SFのことをよく知らないのに、なぜ『火星の旅人』の話を聞きたいんだ? どうしてわたしにたどり着いた?」
率直に、わたしはこたえた。「ひとづてと、検索結果から」
検索して引っかかった『火星の旅人』と同題の短篇小説、その作者がダニエル・アランだった。雑誌に載ったきりのそれを取り寄せて読むと、アランは間違いなくロビンの母を訪ねた人物だと知れた。火星をはじめて歩いた女性の波瀾万丈の物語で、モデルは明らかにマージョリーだ。けれども時代は百年遡って十九世紀に設定され、彼女は大砲と蒸気機関で宇宙に飛んでゆく。これがどう古き良きサイエンス・フィクションなのかはわからないけれど、少なくとも昔ではあった。
作中で、マージョリー=マギーは熱っぽくこう語る。
――ここには新天地がある。誰も見たことのない風景が、誰も足を踏み入れたことのない大地が!
その頃地球では、彼女の故郷では、アメリカを南北に二分する戦争が起きている。ゲティスバーグの演説をカットバックしながら、物語は終わる。アメリカ的と云えばそうかも知れない。
わたしは正直に経緯を述べた。ラジオの話。父の話。ロビンの話。なぜあなたにメールを送ったのか。出版社を訪ねてはるばるボストンにやって来た彼を、こうしてロビーで待ち受けるにいたる来し方を、隠し立てせずに。
アランは端的な共感を示した。憐れみでもなく戸惑いでもなく。「ぼくには息子がいてね」とアランは語った。「考えてしまうね。自分があの子の前から去る日のことを」
彼はわたしの父より若く、けれど老いていた。
「テープはまだ、お持ちですか」とわたしは切り込んだ。「聞くだけでいいんです。一回だけで」
アランは目尻に皺を寄せた。口を歪めて首を振る。
「持っている。だが、聞くことはできない」
「なぜ」
「録音は失敗していた」アランは息を吸い込んだ。「彼女から送られたコピーを再生しても、ノイズが走るだけで何も聞こえない。問い合わせたけれど、返事は来なかった。ちょうど〈マーティアン〉の計画にトラクテンバークが参加した頃で、忙殺されたのだと諦めたよ」
「内容は――じゃあ、テープの内容について、彼女から聞いていませんか」
「具体的なことは、実際に聞いてみれば早い、と云われた。火星の運河とか、都市文明であるとか、広大な荒れ野の風景であるとか、そう云う話は語ってくれたがね」
「『火星の旅人』はSFだったんですか?」
アランは首を捻った。「……ノンフィクションでもあるし、フィクションでもある、と語っていたな」
「どう云うことでしょう」
「ぼくの見解で構わないかな?」
頷く。
「さっきの話に戻ることになる。H・G・ウェルズと云うSF作家の話だ。彼の小説は、厳密には現代のSFと異なっている。科学的なロマンスとでも云おうか……、タイムマシンや宇宙人の物語を彼は書いたけれど、現代のそれのようにあくまでそう云うジャンルとして語るんじゃなく、科学技術の延長でもあり比喩でもあるような書き方を彼はおこなった」アランは自分のスキンヘッドを撫でた。「『火星の旅人』も、同じようなものだったんじゃないかと思う」
「延長と比喩、ですか」
「そもそもテクノロジーやサイエンスの意味合いがこんにちと異なる。『火星の旅人』が放送されたのは四一年だったらしいが、科学とロマンスがウェルズのようなかたちで結びついた、おそらく最後の時代だったんだろう」
「四一年、と仰いましたか」
「ああ、一九四一年。どの局だったかは彼女も知らなかったが、テープのカセットにはタイトルのほかに、放送年まで明記されていたよ。一九四一年。戦争がはじまった年だ。科学はとっくに無垢ではいられなくなっていた」
わたしは気づかないうちにスツールの布を握りしめていた。掌を開く。布の皺が柔らかさのなかに消えていった。一九四一年。テイラー氏はそのとき、十一歳だったはずだ。
火星を循環する運河。
塵のなかに一瞬だけ姿を見せる都市。
機関車のレールのような、果てしない直線。
誰も見たことのない風景を、彼らは聞いたのだ。
「聞いているかい」
「すみません。ちょっと考え込んでいました」
「八〇年以上前の番組になる。放送局がわかったとして、アーカイヴも残っていないだろう。カセットはまたさがしておこう。見つかったら送るよ」
「そこまでしてもらえるんですか」
「もうぼくには不要なものだから」
ダニエル・アランは苦笑した。
「『火星の旅人』は失敗作なんだ――ああ、ぼくの小説の話。モデルが露骨だし、南北戦争で締めくくるのも安易に思える。何より、あれには未来がなかった。失われたフロンティアへの、幼い憧憬とでも云うべきだね。ウェルズの小説は、ひいては古き良きSFとは、現実を見つめて、その結果として、未来を見通すものだ。知っているかな、ウェルズの書いたタイムマシンは未来に向かうんだよ。世に溢れるように、過去ではなく」
「わたしは、面白いと思いました」
「どうもありがとう。……そう、これはもの書きがみんな持つ類いの自信喪失かも知れないがね。しかしマージョリー・トラクテンバークが聞いたと云う『火星の旅人』こそ、本物の、ウェルズの系譜にある作品だったんだろうと思えば、自分の書こうとしたものは偽物に思えて仕方がない」
「『火星の旅人』のラジオを知ったのは、〈WEIRD〉のインタビューで?」
「そのはずだ。当時は火星を題材に何か書こうと模索していて、そこで彼女のインタビューに目を留めた。そうだ、〈WEIRD〉だったな。いけ好かないテクノロジー紹介メディアだ」
「ナラティヴを実装せよ」
「そう、そう」アランは肩をふるわせて笑った。微かに自嘲めいた態度が、竦められた肩に残っていた。「……でも、それこそがウェルズのSFの、いまのあり方とも考えられる。何にせよあのインタビューは面白かった。ラジオがいかに素晴らしく、ヴィジョンを彼女に与えたのか、どんなに熱心に語っても抽象的で、言葉は空回りして」
「でも、惹かれますよね」
「ああ、見逃せないものを感じた……。あのナラティヴは、実際に聞いたものだけが手に入れられるエネルギーだったのかも知れない」
それを手に入れられなかったために、アランはずっと憧れているようだった。その姿を見て、おそらくは不遜な憐れみと、何かの不公正への不満から、思いつきが口をついて出た。
「単純にコピーが失敗しただけなんでしょうか。本当に、ノイズは意図しない事故だったんでしょうか」
「トラクテンバークが、『火星の旅人』を隠そうとしたとでも?」
「彼女は娘にも、テープを聞かせなかったそうですから」
「もしもテープの中身を聞かせたくなければ、ぼくなら、テープの存在自体を隠すよ」
「じゃあ、テープはずっと、ノイズしかなかったんです。一種の暗号のようなもので」
「わかるひとだけにわかる? どんな番組だ」
「だから、番組じゃないんです」わたしはまことしやかに、声を落として喋った。「『火星の旅人』そのものが、火星からのメッセージだとしたら?」
沈黙が下りた。静寂ではなかった。周囲の会話が、むしろ途端に大きくなった気がした。
堪えきれないで、わたしは笑った。アランも吹き出した。自嘲を抜きにして、腹の底から笑ってくれたようだった。
「今度、ネタにさせてもらうよ。いいね、皮肉じゃなく、素朴で夢のある話だ。だが、『火星の旅人』の作者が火星人だとは、にわかに信じられないね」
「荒唐無稽ですよ」
「いや、百年前なら、それは決して荒唐無稽な話じゃなかったろう。人類の探査が火星に及ぶ頃には、火星人は火星を去っていたとか、滅んでいたとか、いまの火星に彼らがいない理由はこじつけられるさ」
「それでも、火星人が作者ではありえない?」
「実を云うとね」アランは申し訳なさそうに云った。「『火星の旅人』について、ぼくはトラクテンバーク以外からも、そのタイトルを聞いたことがあったんだ。内容も、断片的に語ってくれた。さっきまでの話は、そこで聞いたことも踏まえているんだ。それによると、作品はあくまで、人類の目線で語られたものだったらしい。火星人が作ったなら、そうはならないだろう?」
「どこで、聞いたんですか」
「先にことわっておくが、録音の類いは存在しない」
「構いません」また、スツールの生地を掴んでいた。「誰から?」
「テイラーと云う天文学者だよ」
「……イアン・テイラー?」
「なんだ、知ってるんじゃないか。彼は火星の研究者ではないらしいが、『火星の旅人』のタイトルを挙げたら、彼が応接してくれたよ」
「イアン・テイラーは、いまどこにいるんです?」
テイラーを知っているのに、どうしてそれを知らないんだ?――ウェルズのことと同様に偏っているわたしの知識に、アランは戸惑っていた。
「火星の研究なら、決まっているだろう――ローエル天文台だ。一応、取材したんだ」
「ローエル?」
「ここだよ」
アランは携帯端末を開いて、その天文台を示してくれた。衛星画像を繋ぎ合わせた地図に、赤いピンが打たれる。フラグスタッフ、アリゾナ州。
表示された名称には、〈パーシヴァル・ローエル天文台〉とあった。
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