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「存在したと思う。たぶん、ママにとっては」
そう云って、ロビン・トラクテンバークは口を尖らせコーヒーを啜った。わたしよりひとつ歳下であるだけなのに、歳の離れた妹のような、幼さと紙一重の愛嬌があった。母親と同じ赤い毛を豊かに伸ばしている。
途切れた線がそんなかたちで繋がったのは、一ヶ月後のことだった。
たった一度だけ流れた、不謹慎な噂がある――トラクテンバークが最後に残した通信では、娘の名前が呼ばれていたらしい。ローラ、ローラ、ローラ!
重要なのは、噂そのものではない。どこかの誰かの投稿についた反論だ。
――嘘。でたらめ。フィクション。デマ。マージョリーの娘の名前はロビンだよ。このドキュメンタリー番組を見てみろ。ジョークにしても最悪のジョークだ。
チェックしていなかった番組の、チェックしていなかった情報だった。ロビン・トラクテンバーク。もちろんそれだけではどうにもならない。けれどもわたしはその名を、しばらく舌の上で転がして、口のなかで発音した。音として耳に残る名だった。わたしの勤める大学で進化生物学の学会が開かれたとき、名簿のなかにある彼女の名を、だからすぐに見つけることができた。UCLA生命科学分野、ロビン・トラクテンバーク。厭わしかった名簿の確認作業中、こんなにも昂奮したことはなかった。
大学を出ていないのに大学の末端に務めているのも可笑しな話だと自分でも思う。書類の整理と数字の入力に学士号は必要ないからだろうか。いや、わかっている。教員になった学生時代の友達を通して母がここを紹介したのは、結局進学しなかったわたしに、大学を諦めさせたくなかったからだ。母は周到なひとだった。
母の思いやりで得た職権を乱用して、わたしはロビンのメールアドレスを手に入れた。同じく学会に出席した学生のふりをしてメールを出す。わたしの興味が彼女の母の死ではなく得体の知れないラジオ番組にあることが気を惹いたらしい。想像以上に好意的な返信が来た。
翌日には、学内のコーヒーショップで顔を合わせていた。
「学会には出なくていいの?」
「資料を読み込んでたらそれだけで、やる気が失せちゃった」
互いに握手する。ロビンは眉を上げてみせた。「それに、ボストンの大学生と交流する方が重要でしょう? 教授なんて、学会の遠出はほとんど外交目的なんだし」
「相手がわたしで良かった?」
「ママのことで、陰謀論をふっかけないひとなんてはじめてだったから」
歴史的な死には暗い噂がつきまとう。しかしそれがなければ、わたしは彼女の名を知らないままだった。
嘘をつくことに――身分を偽り、事務で見聞きしたことを自分の物語として喋ることに、罪悪感がなかったとは云わない。自分の飲んでいる液体を何度も吐き出しそうになった。黒い汁が胸に凝る気がした。なぜこんなことをしてまで、とも思う。ごく当たり前の友人として会いたかった。何より彼女は、そう思わせるほどに魅力的に映った。
ラジオのことは何度か聞いたことがある、とロビンは思い出してくれた。
「『火星の旅人』のことも、何度か話してた。でも、テープは聞かせてくれなかったな」
「音源はもうなかった?」
「んー、聞かせてあげられない、じゃなくて、聞かせたくないってところ。ママは、『火星の旅人』は聞いちゃだめだって云ってた」
「自分の原点なのに?」
「原点だから、だって。あなたまで宇宙を目指す必要はないのよ、とかなんとか。変でしょう? 別にラジオ一本聞いたところで、どうにかなるわけじゃないのに」
そうだろうか。実は、どうにかなるのかも知れない。テイラーの父も、わたしの父も、それを聞いて宇宙に焦がれた。
「だからね、考えたんだ」と云うロビンは、声を僅かに落とした。「そもそも『火星の旅人』は、フィクションなんじゃないかって」
「ラジオドラマなら、フィクションでしょう」
「そうじゃなくて、その存在が、フィクション」
「存在しない、と云うこと?」
「そう。でも、単なる嘘じゃない。ママは自分のお祖父ちゃんからラジオの録音を聞いた。ラジオそのものからじゃなくてね。もしかしたらテープにフィクションを吹き込んで、孫娘に聞かせたのかも知れない――だったら、ママにとっては本物になる。ママは薄々嘘だってわかってた、だからわたしに聞かせなかった、でも、ママにとっては本物だったんだよ。それがつまり――」
「あなたのお母さんにとっては、存在した、と」
ロビンは頷いた。わたしは頷けなかった。もしもそれが真実なら、イアン・テイラーの父は? わたしの父は?
フィクションではありえない、と云うことをわたしは率直に話した。テイラーのこと、父のことを、掻い摘まんで説明する。『火星の旅人』は存在する――そうでないなら、わたしはこうしてその正体を追いかけてもいないはずだ。ロビンともこうしてコーヒーを飲んでいなかった。
ロビンは、けれども納得しない様子だった。小首を傾げ、もう空になった容器に口をつける。
「そのテイラーさんも、あなたのパパも、やっぱりラジオそのものを聞いたんじゃないんだよね? なら云えるのは、ラジオ番組があった、と云うことじゃなくて、録音があったってことじゃない?」
「テイラーの父は?」
「断片的な思い出話なんでしょ? だったら、何か、『火星の旅人』と云う共通のお話が細々と受け継がれている、と考えた方がいいんじゃないかな」
反駁しようとして、思いとどまった。その考えの方がずっと合理的であるし、何より、ただ音源を聞きたいわたしにとっても、その方が道をたどりやすい。けれどそれならば、共通の物語が伝言ゲームのように受け継がれると云う奇妙な話にもなってしまう。
「でも、噂なんてそんなものじゃない?」
「『火星の旅人』は噂じゃない」
「言葉から――情報からできているんだから、同じだと思うけどな」
ナラティヴを実装せよ。語れよ、聞けよ、拡げよ、満ちよ。
空の容器を揺らして、ロビンは外に目を向けた。広く取られた四角い窓から、ひと影の疎らなキャンパスが見えた。「わたしが研究してるのも、要するに、そう云う話だし。遺伝子は究極的には、情報の媒介である、みたいなこと」
「専門は生物学じゃないの?」
「んー、ドーキンスって知ってる?」
首を横に振る。ロビンは頬笑んだ。
「ま、そんなこと云ってても『火星の旅人』には関係ないから。問題は番組の内容以上に、録音のテープの方。物理的な記録媒体。情報の乗り物。そうでしょ。あなたが聞きたいのはその音声」
今度は、縦に首を振ることができた。
ロビンは数秒、考え込む様子だった。店の隅からペーパーナプキンを持ってきて、ペンで名前を走り書く。ダン。アラン。ダラル。ダン、ラン。書いては取り消すのを繰り返してから、断片をようやく適切に配置した彼女は、出来上がった名前をぐるぐると囲った。
――ダニエル・アラン。
「誰?」
「わからない。でも、ママを一度訪ねて来た。作家って云ってた気がする。あなたと同じで、『火星の旅人』のことを知りたいんだって。何年前かな……」
「〈WEIRD〉のインタビューが載った頃?」
「そう、そのあたり。ママは彼に、あとでテープのコピーを送ったはず」
わたしは身を乗り出した。わたしたちの間にある小さな丸テーブルが回った。店に通って一年近く経つけれど、そんな機能があることをはじめて知った。
「本当?」掌を当てたままテーブルを逆に回す。ふたりぶんのコップが回転する。「まだそのときには、テープ自体もあったんだ」
「オリジナル――って云うのも変かな。うん、まだママは大事に持ってた。聞くことはなかったけど」
「それはもう、ない?」
「ない」ロビンは元に戻ったテーブルを弾いて、さらに回した。空の容器が軽い音を立てる。遠心力がコップを引き離す。「いまは、火星にあるよ」
ママと一緒にいる、と笑うロビンを、わたしは間の抜けた顔で眺めていたと思う。ごめんなさい、と云ったところで彼女は気にするふうでもなかった。その代わり、ねえ、と彼女から身を乗り出してきた。
「パトリシア」とロビンは云った。「あなたは誰?」
わたしたちの間で、回転が止んだ。
「進化生物学の学会に出席する、ドーキンスを知らない学生なんてありえないよ」ロビンは続ける。「SNSで公開してるアドレスじゃなくて、大学用のアドレスにメールしてきたし。おかしいな、とは思ってた」
わたしはこたえられなかった。凝った罪悪感が溶け出し、黒い粘液が逆流する。
――嘘。でたらめ。フィクション。デマ。
ジョークにしても最悪のジョークだ。
返答に窮するわたしを余所に、ロビンは頬を掻いた。ダニエル・アランの横にメールアドレスを書き加え、ナプキンを差し出す。
「これが連絡用のメール。有効期限付きの学生用アドレスなんて、めったに使わないから。一応転送設定はしてるけど――」
「どうして」
「今回みたいにそれ経由で連絡が来たら困るじゃない?」
「違う。どうして、アドレスを教えてくれるの」
ロビンが返事に間を取られる番だった。「んー、さっきも云ったでしょう。ママのことで、詮索しようとしないのはあなたがはじめてだったから。お悔やみすら云わなかった」
「それは、別に目的があったからで」
「だとしても、普通はいろいろ訊くよ」ロビンの口調は呆れたようだった。「わたしはママが死んだことを、悲しいと思ってない。人類の進歩の糧とか、そう云うことでもない。単純に、悲しんでないの。娘失格かな?」
首を横に振った。いままでのどの否定よりも強く。
「ママは火星で死んだ。それって、凄いことでしょう? 理解も悲しみもまだそこには届いてない。どんな説明も、そこには追いつかない。そもそも、誰かが死ぬって云うのは、たぶんそう云うことなんだと思う。自然淘汰なんかを勉強してると、とくにね。誰かが死んで、残った誰かは生きている。それは人間を超えた理屈なんだよ。――わかる?」
わからなかった。けれど、相槌を打った。砕けて開けた口調のなかに、ごとりと転がる理屈と知性。そのどちらもロビンの言葉だった。
「当ててあげようか。あなたにとっての『火星の旅人』は、きっとその理屈を超えるための鍵なんだよ」
「父さんも母さんも病死だよ。ごく普通の」
「パティ、わかってるはず」
ロビンはテーブルを、最前とは逆に回しはじめた。
「友達になりましょう。わたしはロビン。さあ、あなたは誰?」
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