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トラクテンバークの名を知ったのは、遺品整理を兼ねた『火星の旅人』さがしの最中だ。彼女のインタビューが載った二〇一六年の〈WEIRD〉は、本棚の端に押し込まれていた。
特集は〈2020年宇宙の旅〉。折しも帰還した最新のアポロ計画を特集する一方で、NASAが発表した火星探査計画を取材し、来たるべき数年後の宇宙旅行を熱っぽく取り上げている。言葉よりもヴィジュアルを前面に押し出す誌面のデザイン、SFからの引用かと見紛う、テクノロジー用語を満載したテキスト――実際、SF作家からの寄稿もあった――、棚に収まることを拒むスクエアの製版。編集後記はこう締めくくられていた――ナラティヴを実装せよ。未来を加速させるのは物語だ。
父の蔵書だったと云う科学事典と母の購読していた雑誌、あとはアルバムが並ぶだけの書棚にその〈WEIRD〉はまさしく
一九六二、マイヤー。一九七一、バイキング。二〇〇一、オポチュニティ。二〇一〇、キュリオシティ。そして二〇二〇、マーティアン――火星の探査史に眼を滑らせたわたしが、次に載っていたトラクテンバークのインタビューに行き当たったときの昂奮を想像してほしい。カセットは見つからなかったけれど、テープはこの世のどこかに存在したのだ。母の記憶にしかなかった物語は、現実となってわたしの目の前に現れた。物語を実装せよ!
誌面を半分に割って映されたマージョリーは、柔らかな顔をくしゃくしゃに丸めて笑っていた。優しそうな、しかし冴え冴えとした眼。
――わたしは宇宙に行ったのです。
父も宇宙に行ったのだろうか? あるいは行くことができなかったから、ああなるしかなかったのだろうか?
肌触りの滑らかな誌面を撫でながら、わたしはトラクテンバークの言葉を追いかけた。手掛かりだ、と思った。たどるべき道を見つけた。いや、正確には、自分がたどろうとしているものが一種の道であるとわかったのだ。次にできることは、ワールド・ワイド・ウェブの時代の子なら誰でも知っている。
わたしはパソコンを起動した。火星は、火星の、火星のために、火星と共に、火星について。大量の検索結果に気圧されながら、ひとつひとつの記事を当たってゆくのも苦にならなかったのは、トラクテンバークと云う有力な手掛かりがあったからかも知れない。二億三千万キロメートルの彼方で彼女が塵に呑み込まれた報せが届くには、まだ時間がかかった。
――ヴァイタルサインは十四時間前に途切れました――人類の未来のために逝った、などとは思いません。そんな、恥知らずなこと――痛ましい悲劇です――しかしわれわれは、歩みを止めてはならない。それが彼女の遺志でもあります――拡散、人類にはまだ未来がある!――
翌日訪ねて来たセドリック・ヘイズは、うなだれるわたしを見て未だ両親の死から立ち直っていないと思ったらしい。
「来て良かった、こんなに急に両親を亡くして、心配だったんだ」
「諸々の手続きなら、もう進めてるよ。父さんと違って、母さんはその辺、準備が良かった」
「ああ、おふくろさんは周到なひとだった」掃除されていないリビングを見渡して、セドリックは口を曲げる。「でも、パティ、きみは? その準備やら手続きやらに、きみ自身は追っついているのか?」
「わたしは大丈夫」
「なら、そのぐしゃぐしゃの顔を洗って、カロリーバー以外の飯を食え――これは医師としての忠告じゃない、大人としてのアドバイスだ。職場の復帰はいつ?」
「半月は休職扱いになってる」
「いい会社じゃないか。新米でも両親を悼む時間をくれる。どこの編集部だっけ?」
「ボストン大の事務の見習いの見習いの見習い。母さんの友達に紹介された」
「……そう。悪かった」
「大丈夫だから。気にしないで」
事実、両親の死に対して、わたしは平静な気分だった。こんなにひとでなしだっただろうか、と思う。あるいはまだ、心が追っついていないだけだろうか。ともかくその朝のわたしは、すでに思い出となりつつある父の死や、未だ実感を伴わないで後始末の進む母の死より、顔しか知らないトラクテンバークの死に傷ついていた。人類に未来はあっても、この調査行に未来はない。全部お終い。早ばやと。
頭と顔を洗ってから余っていたマフィンを焼き、冷蔵庫に残っている期限切れのピーナッツバターを恐る恐る塗ってからリビングに戻ると、セドリックは〈WEIRD〉を手に取っていた。
「宇宙に行くのか?」
「父さんの買ったやつだと思う」ぱさぱさの生地に噛みつくと、粘っこい半固形の物質に舌が刺激され、わたしは思わず顔をしかめた。「ねえ、『火星の旅人』って知ってる?」
「この雑誌と関係あるのか?」
「間接的には。でもそれ以前に、父さんに関係することだよ」
「ビルに?」セドリックは顔を上げた。「……確かにあいつは、SFの話をよくしていたな。火星に行くつもりだったのか?」
「『火星の旅人』って云うのは固有名詞。父さんの口から聞いてない?」
「『スタートレック』なら。『スターウォーズ』とか」
「じゃあ、カセットテープは? 父さんが持っていたと思うんだ。タイトルに『火星の旅人』って書かれてる」
「戦場で、あいつがそんなものを嗜んでいた記憶はないな。マフィン、食べないのか?」
「カロリーバーでも噛んでた方がましな味。……本当に何も聞いてない?」
「どうしたんだ?」セドリックの声は困惑していた。「いきなり、なんで、おやじさんに興味を抱いた?」
どうこたえるべきかわたしは迷った。まずいマフィンを口いっぱいに頬張って、返答までの時間を先延ばしにする。セドリックはソファの裏に並んだ空の壜のひとつを取り上げた。窓から差し込む陽がその薄緑のガラスで複雑に反射する。よく晴れた朝だった。火星で人類が死んでからはじめての朝。
マフィンを呑み込んで、わたしは云った。「嫌いな父親だった。ろくでなしだった。セドリック、英雄だなんて云わないで。少なくとも、わたしにとっては、たぶん、母さんにとっても、決していい父親じゃなかった」
喉の奥で、刺激物と化したピーナッツバターが引っかかっていた。
「でもそれは、もっと大きな――家族とか、戦争とか、そう云うなかでの父さんの話で、ウィリアム・グッドウィンと云う個人は、単純に生きて、夢を追いかけて、叶わないまま死んだ」助けてくれよ。「……ちょっとはそう云うことに、向き合おうかと思って」
間の抜けた沈黙があとに残って、わたしは取り繕うように『火星の旅人』のことを話した。父のかかりつけ医は、わたしのかかりつけ医でもあった。医者が患者の身の上話を聞くのと同じ姿勢で、ダイニングの椅子に浅く腰掛けたまま、セドリックは口を挟むことなく頷き続けた。
彼は『火星の旅人』を知らなかった。ただ父親について、こう付け加えるに留めただけだ。「……本当のところ、英雄でさえなかったさ。ごく普通の兵士だった」セドリックは苦笑した。「普通に戦場を駆けて、当たり前に病んだ。それが普通さ。そうか、あいつにも普通に夢があったか」
出勤前に顔を出して良かった、とセドリックは云って家を出た。父親代わりのつもりだ、とわたしは思った。きっと『火星の旅人』のことも、心に空いた穴を埋めるためにわたしが没頭している逃避だと受け止めているのだろう。否定はできない。けれども自分をそんなふうに分析した途端に、本当の風穴が開く気がした。
テレビを点けると、ニュースは歴史的な悲劇で持ちきりだった。その日一日は、そして職場からたまわった半月の休暇のうちは、わたしはWEBで思いつくまま検索をかけることを除くと、種々の手続きと整頓に没頭した。これこそ本当に逃避だった。手掛かりは途切れたのだ。
唯一見つけた有力な情報であるテイラーのブログに、コメントを送った。反応はなし。一歩でも進んだと思えたのはそれくらいだ。はじめのうちはまめに様子を見に来たセドリックも、わたしが職場に戻る頃には顔を見せなくなった。
最後に会ったとき、医者はおよそ医者らしくないフローズンチョコレートのカップをわたしに渡してから、困ったように云った。
――そんな番組、本当に存在すると思うか?
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