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 人類がはじめて火星に降り立つ中継を、わたしは母の病室で観ていた。人間よりも不毛の荒野が映されている時間のほうが長い、その退屈な番組のあいだ、わたしは何度もチャンネルを変えようとした。いくらアポロ以来の歴史的瞬間とは云え、無機質な病室で観ていたいと思える画面ではない。けれども母は頑なにテレビを見つめていた。

 入院に重い事情はなかった。父が生きていた頃のストレスで絞られた彼女の胃が、父を亡くしたあとの虚しさで逆方向に捩られた――セドリックはそう説明した。父とはアフガニスタンで負傷兵と軍医だった仲だ。揃って帰還してからも、彼らは患者と医者の関係であり続けた。

 ――怪我は治せるんだがね。あいつの心の傷までは診られない。

 心に開いた傷を酒で消毒するのさ、と云う父が好んだ喩えは、この医者からの受け売りだった。生理学的な説明よりメタファーを持ち出したがる、医者としての親切心の、医者としての空回り。

 彼は母に、二週間の入院を勧めた。市の病院で検査を受けると、胃だけでなく身体中がぼろぼろだった。戦争は帰還した者をも傷つけ、傷から入りこんだ病はその家族をも蝕む。父が残した保険金はすべて母の治療にあてられた。わたしの知っている限り、父が母に唯一してやれたことだ。

 トラクテンバークが――そのときはまだ名前も知らなかった彼女がもうすぐ宇宙船を出るかと云うところで、母が呟いた。

 ――あなたのお父さんは、宇宙飛行士になりたかったの。

 母は力を抜いてベッドに身を横たえていた。右手だけがシーツを強く掴んでいる。

 ――ハイスクールの成績が悪かったから、その入り口にも立てなくて、軍に入ったけれど。軍が宇宙に進出する時代が来るんだって、たまに云ってた。そうなったら、おれは真っ先に宇宙軍に志願するって。所属は陸軍なのにね。

 そんな夢、話してた?

 ――酔っぱらうと、ね。

 しょっちゅう酔っぱらってたじゃない。

 母は首を横に振る。――あれは酔ってたんじゃない。溺れていただけ。

 そのとき、荒涼とした大地に、円筒から手脚が生えたような宇宙服が降り立った。二十一世紀になってもアポロのイメージを拭えなかったわたしには、軽量化と関節の柔らかさを獲得したと云う最新型のデザインが宇宙人に見えた。火星人はカメラに手を振って、地球の三分の一の重力を引き離すように、軽やかにスキップしてみせた。

 ――彼は火星に行くつもりだった。月はもうほかのひとが行ったから。どうせ行くなら、未踏の場所に行きたいって。

 ――そうだ、パトリシア、あなたラジオ好きでしょう?

 わたしは頷く。嘘をついた。好きなわけではなかった。家に居ると父がテレビ前のソファを占領しているし、ひと前で本を読むのはなんだか気恥ずかしかったから、ネットサーフィンのついでにWEB配信のラジオをかけていただけだ。

 ――『火星の旅人』って、知っている?

 それは母と出会ったばかりの父が、彼女に問いかけたのと同じ質問だったと云う。三十年前の夏。ロサンゼルスのドーナツショップ。庇の破れたテラス席。ジャケットからカセットテープを取り出し、ひとに見られたら困るかのように掌で隠しながら、手書きのタイトルを隙間から覗かせた。

 ――テープが擦り切れてもう聞けなくなっても、彼はカセットを持ってた。彼の夢はカセットの形で、ずっと彼と一緒だった……。

 父の夢。宇宙の夢。火星の夢。叶わなかった夢。擦り切れるまで聞き続けた、諦めきれない夢の原点。

 ――ねえ、あなたの夢を、いま人類は叶えたのよ。

 母はもう、わたしに話しかけていなかった。テープはどこにあるの、と訊ねても、返事は曖昧なまま、トラクテンバークがカメラの視角から消えるのを見つめていた。

 あとに残るのは、砂と塵、そしてカメラ。

 後日に父の遺品を漁っても、それらしいものはどこにもなかった。記憶をたどっても、父がカセットテープをいじっているところさえ見たことがない。わたしにとっての父は、夢を棄てられない若者でも、アフガンで懸命に戦った英雄でもなく、昼から酒壜を並べて何ごとかを呻きながら、退役軍人の年金を食い潰すおやじだった。

 ――パーシー。

 父はお腹に子を宿す妻を置き去りに、戦場へ発った。何も得ることなく、殺すだけ殺して帰ってきた彼は、今度はその地に、自分の夢を置き去りにしてきたのかも知れない。

 休養のためだったはずの入院が長引き続け、そのまま退院せずに逝った母の葬儀を終えたとき、わたしはテープをさがすことに決めた。理屈ではなかった。追悼でもなかった。ただその録音を、わたしは聞いてみたかった。

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