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のちに人類史上はじめて火星に降り立った人間として知られることになる、さらにあとには人類史上はじめて火星で死んだ人間として悼まれることになる、しかし当時はまだ母親にして宇宙飛行士と云う経歴が注目されるに留まっていたマージョリー・アン・トラクテンバークは、二〇一六年に〈WEIRD〉誌のインタビューで自身の原点を明かしている。
宇宙を志したきっかけは『火星の旅人』です。レイ・ブラッドベリやアーサー・C・クラークに夢中になっていた同級生の男の子たちはみんな宇宙を夢見たとしても、宇宙飛行士にはなりませんでした。わたしは夢を見たんじゃありません。あのラジオを聞いて、わたしは宇宙に行ったのです。行った、は強調でよろしくね。
このインタビュー中、トラクテンバークは『火星の旅人』の内容に触れていない。祖父が録音していたテープを聞いたと云う経緯のほかは、ラジオが与えてくれた宇宙的ヴィジョンの漠然とした印象を語るのみで、『火星の旅人』がドラマなのか、ドキュメンタリーなのか、何らかの解説番組なのかさえ明かしていない。記事の末尾に付された註釈には編集部が、当該のラジオドラマをさがし当てられなかった、オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』の誤りではないかと考えられるとだけ記していた。
もちろん、誤っているのは註釈の方だ。『宇宙戦争』は火星人が地球に襲来するドラマであって、人類が宇宙に行く物語ではない。とは云え〈WEIRD〉が真っ当な編集をおこなっていると信じるならば、トラクテンバークはこの註釈が付されることを受け容れたのだろうし、彼らが『火星の旅人』なるラジオドラマの存在から疑いたくなるのも無理はない。試みに調べようとしたところで、それらしい話題はほとんどヒットしないからだ。
検索――〈火星の旅人 ラジオ〉
結果――約一三四二万六六〇〇件
火星は、火星の、火星のために、火星と共に、火星について。
わたしが検索をかけたとき、その途方もない数字と、並ぶ結果から予期される徒労に圧倒されたものだ。おそらく編集部だって同じだったろう。
それでも彼らがもう少し、同題の関係ないSF短篇や科学読みものと、アマゾンほか各種通販の広告を掻き分ける根気と、個人のブログであろうと読んでみる時間の余裕があったなら、アリゾナの天文学者がブログに残したエッセイに行き着いたはずだ。わたしのように。あるいは行き着いてなお、参照しなかっただけだろうか。いずれにせよ、イアン・テイラーと云う、記事投稿当時四十三歳だった天文学者は、同じく天文学者だった父親の思い出を語るなかで、『火星の旅人』と云うラジオドラマに言及していた。彼自身はドラマを聞いたことがなく、老いて認知症を患った父の、断片的な昔話からタイトルを知ったに過ぎない。
十一歳の少年に戻った父は、火星の冒険を熱っぽく語った。火星を循環する運河。塵のなかに一瞬だけ姿を見せる都市。機関車のレールのような、果てしない直線。この手のドラマならお約束である火星人との邂逅は、不思議なことに語られなかった。おそらく忘れてしまったのだろう。幼い父を魅了したのは、火星人との戦いではなく、火星の風景そのものだったのだ。
注目するべきは二点。まず、イアン・テイラーの父が当時十一歳だったらしいこと。わざわざ特定していることを踏まえると、彼にとっては根拠のある数字だったのだろう。父親の享年と亡くなった年の記述から逆算すれば、テイラー氏は一九四一年に『火星の旅人』を聞いたことになる。前後に一、二年の余裕を取ってみてもいい。
もう一点は、誤った科学的説明とフィクションの混同について。ドラマのドラマティックな要素が抜け落ちたこの記述だけでは、番組はドラマではなく一種の――誤りだらけの――ドキュメンタリーだった可能性を否定できない。現代の天文学者であるイアンからすれば間違いだらけの火星の風景描写はしかし、一九四〇年代には一定のリアリティを持っていたはずだ。火星文明の明確な否定は一九六二年、マリナー四号による撮影探査を待たなければならない。
そのプロジェクトには、あるいはテイラーの父も関わっていたかも知れない。彼はその生涯を火星の研究に捧げたと云う。ブログの記事では語られていないけれど、イアンが天文学を志したのは、父親に憧れたからだと云うことは察せられた。
――わたしは父の話を可能な限りたくさん聞いてやった……それはかつて、子どものわたしを魅了した物語でもあったから。
スピリットとオポチュニティの双子が火星に降り立つのを見届けることなく、テイラーの父は一九九九年にこの世を去った。認知症は加速し続け、息子の名前だけ――目の前の人間と一致させることのできないまま、その名前だけを――忘れずに亡くなった。イアンのブログは二〇〇七年のこの投稿を最後に止まっている。ほかの記事にはラジオ番組どころか火星の話題さえ載っていない。
トラクテンバークの話に戻るなら、彼女はあのインタビューのあと、NASAの有人火星探査プロジェクトへ本格的に参加し、外部への露出を急激に減らす。以降のインタビューでは、宇宙飛行士にして母親である像を求められた結果だろうか、私的な話題は家族の範疇に留まった。SNSの運用も、思い出に浸ることなく目の前の出来事を活き活きと呟き続けるだけ。宇宙へ発ってから彼女が話すのは宇宙のことであり、火星のことであり、それらの驚異と感嘆であり、すでに宇宙へ行ってしまった人間が、かつて宇宙を幻視させた『火星の旅人』なるラジオドラマに言及するはずもなかった。
――人類にはまだ未来がある!
これが、彼女の最後のコメント。
そしてマージョリーは、わたしの知りたいことを何も語らず、火星の塵の彼方に置き去りにされた。砂嵐に巻き込まれたとしつつも、事故の詳しい原因は調査中であるとNASAは発表している。また火星へひとを送るには何年もかかるし、無人探査機による調査も捗らず、何より、優先されるのはあくまで探査であって、死体の回収ではなかった。
最後の通信で彼女は娘の名前を繰り返していた、と云う噂が一度だけ流れた。
手掛かりは、こうして途切れた。残されたのは、呼ばれ続けるふたりの子どもの名前だ。そこにわたしを含めれば、三人になる。
――パーシー。そこにいるのか?
――酒を隠さないでくれ、パーシー。
――パーシー。助けてくれよ。パーシー、パーシー、パーシー。
父はわたしを間違った愛称以外で呼ぶことはなかった。パトリシア。その名を付けてくれた母を通じて、わたしは父の愛したラジオ番組を知ったのだ。卒中で斃れるまで、結局わたしは父と、直接言葉を交わさなかった。
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