第3話

 だから、銑次せんじもまじめくさって、笑いを少しも交えずに答える。

 「バカ言うな。おれが愛する女は昔も今も見留みとめ美貴みきだけだ」

 美貴はいまでもピアニストとしては見留美貴と名のっている。

 で?

 「あら残念」

 何だよ、その反応?

 「千愛ちあいって、だれにでも愛される女だと思ってた」

 「まあ、それはそうだが」

 だれにでも愛される。

 たしかにそうだ。

 しかし、坂村さかむら憲悟けんごの話を聞くかぎり、「だれにでも愛され女」ではなかったようだ。

 愛され、飽きられ、捨てられる。

 それを繰り返す。

 新しい年が明けたばかりのいま、その話は、したくない。

 だから。

 「それでも、おれが愛する女は見留美貴だけだ」

と言って。

 美貴が鍋から離れたところに、後ろから抱きついたらどうなるだろう?

 たぶん、腕が、その「O」の字型になった体をじゅうぶんに回りきらないだろうけど。

 その、やわらかい、いっそうやわらかさを増したはずの体を抱きとめれば。

 そう思って、銑次は美貴の後ろへと、一歩、二歩と近づく。

 しかし。

 その美貴が鍋から離れる前に、店の扉が開き、段違いに明るい外の光が店に射し込んだ。

 店の中がさあっと白く浮かび上がる。

 「ただいまぁ」

 ユーフォニウムという、チューバを小さくしたような楽器をケースに入れて、娘のじゅんが戻って来たのだ。

 学校に着て行くコートを着ているが、下は私服で、トレーナーか何かのようだ。

 岬の公園まで行って、吹いて来たのだろう。

 近くの私立の高校に通って、マーチングバンドなんていう半分体育会系の部活をやって、体型がどんどん母親に近づいていっている。

 その順が言う。

 「ああ。お父さん、起きたの? おめでとう」

 あいさつの省力ぶりが母親の美貴にそっくりなのだが。

 「お。おめでとう。美貴、順」

と、さっきは省いた美貴へのあいさつもいまついでにやっておく。

 「で、お雑煮はここで食べるのか?」

 「まさか」

 色っぽさのかけらもない、美貴の否定。

 「家の台所に持って行って食べるわよ」

 じゃあ、なんで店のほうで調理したんだ、というと。

 たぶん、食材がこっちの大型冷蔵庫に入っていた。順がそれを覚えていて、こちらで下ごしらえをしてしまったからだろう。

 「じゃ、着替えてくるね」

と順がその楽器を持って店を横切り、店の奥から家の廊下へと消えて行く。

 坂村憲悟の浅草の店「チャーリー」では、いまもおお晦日みそかの夜も元日の夜もパーティーをやってバカ騒ぎをしているのだろうか。

 このフラナガンは一二月三〇日から一月五日まで休みだから、ほんとうにひっそりしている。

 この店を開店したころ、この街はもっと賑わっていた。

 近くには大企業蒲沢かんざわ総工そうこうやその関連企業の工場がいっぱいあった。そこで働いている連中がこの店にもやって来た。宮戸みやと港に着く貨物船の乗組員だというアメリカ人が、船が着くたびに店に来て、船が出航するまで毎日閉店まで店にいたこともある。

 そのころから、蒲沢総工関係の工場は盆と正月には機械を止めるので町に人が減り、正月は閑散としていた。

 いまは、ふだんから閑散としている。正月はもっとだ。

 浅草の坂村憲悟はこんな時間を送れない。

 それは、東京の浅草などという人口密集地で店を開くという生きかたを選んだからだが。

 では、あの掛川かけがわ千愛は、こんな、ただひたすらしずかに過ぎて行く時間を知っているのだろうか。

 いまも知らないのか。

 それとも、あんがい、こういうほっとする時間を送れる生活をしているのか。

 また会ってみたい。

 銑次と美貴と坂村憲悟と出会ったころの千愛は中学生だったから、その年齢を、いま娘の順は超えてしまった。

 順に引き合わせたら、千愛は何と言うだろうか?

 「あんたさ」

と、そんな思いに浸っている銑次に、美貴が呼びかける。

 「お盆用意しておいてくれる?」

 で、銑次が何も反応しないうちに

「そのうるしのでっかいのを三つ載せていくんだから、それだけの大きさのを用意してよ」

とつけ加える。

 たしかに、この器は浅くて、そのかわりに普通のシチュー皿ぐらいに大きいのだが。

 この横に大きい美貴が、大きい椀を三つも盆に載せて持っていくのか。

 想像するだけでおもしろいようでもあり、でも、それはすぐに現実になるのだからおもしろがっていてはいけないとも思う。

 「はいよ」

 銑次は、店でいちばん大きい盆を天袋から下ろすために、また踏み台を取りに行った。


 (終)

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夢と追憶 清瀬 六朗 @r_kiyose

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