狩人の詩 (1)
鬱蒼と茂る森の中、その
一見すると、狩り場へ向かう途中の気楽な散策のようにも見えるが、実際はそうではない。めぼしい獲物が見つからず、ただ当てもなく森をさまよっているようにも見えるのは、彼があまりにも自然体でいるためだ。本来の狩り場とは異なる森の奥深くでも、必要以上に緊張することなく、むしろ未知の場所だからこそ満遍なく意識を向ける。その結果、まるで森そのものに溶け込んだように見えるのだ。
楸は、気難しい森の民にも匹敵する弓の達人であり、この辺りでは一番の狩人として知られている。その腕前は誰もが認めるところで、巨大な
「魔法? そんなものが無くたって、狩りは腕次第さ」
そう言って笑う彼の言葉通りだった。飛び交う小鳥を一撃で射落とす正確無比な狙い、自分の足元にまで迫った獣にも少しの動揺も見せずに弓を引き絞る冷静さ。そして、相手を追い詰める際に見せる狡猾さと老練さ。それらすべてが、彼を森一番の狩人たらしめていた。
しかし、いくらその技術が卓越していようとも、年齢という敵には勝てない。肉体的な衰えは明らかでありながら、楸はいまだ森の主としてその地位を保っていた。それでも彼は、未だ後進に道を譲るつもりはなかった。
「……くっ」
荒い息を整えながら、彼はかすかに毒づいた。
数年前なら、この程度の道のりで息が上がることなど無かったはずだ。森の中で聞こえるのは、鳥たちのさえずりと風の音、そして自らの呼吸だけ。
「年を取ったか……いや、まだまだだ」
自嘲するようなひと言をつぶやきながら、彼は独特の呼吸法を用いて、ゆっくりと息を整えた。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。これを何度も繰り返すことで、体の隅々にまで酸素を巡らせるのだ。
ようやく息を整えた楸は、腰に下げた皮袋を手に取り、水を少しだけ口に含むと、それをゆっくりと喉に流し込んだ。ごく少量の水でも、彼にとっては十分だった。
「さて、行くか」
彼は視線を森の奥へと向ける。日の光が木々の隙間から差し込み、地面に模様を描いている。まだ日は高い。狩りの時間はこれからだ。
彼は軽く肩を回し、再び歩き始めた。
突然、
森の下草に、踏まれた痕跡を見つけたのだ。かなり新しい足跡で、まだ一時間も経っていないだろう。
それは、まるで森が彼だけに囁いた秘密のように、微かな印を残していた。もし彼以外の者が通りかかったなら、まず間違いなく見逃していただろう。それほど微細な痕跡だった。
楸の目が変わる――それまでの柔和な表情は消え去り、鋭い狩人の目に変わった。まるで光の加減が変わったかのように、彼の全身が獲物を追う者の気配を纏い始める。
「……見つけた」
彼は低く呟いた。
矢をすぐに
足跡は、軽く押し付けられたような丸い跡――明らかに爪の痕があり、おとなしい動物のものではない。この辺りには、鋭い爪を持つ草食動物などいないのだから。
だが楸には、それ以上の確信があった。これこそ、自分が追い求めていた『悪魔の牙』の足跡だと――本能がそう告げていた。
『悪魔の牙』
その名がつけられた理由は、最初に発見された死骸に残っていた牙の痕からだ。巨大な
「……
楸は、そのときの話を思い出しながら呟く。その光景は、言葉だけでも脳裏に鮮明に浮かぶほど異様なものだったという。
だが、その恐るべき力は、ついには人間にも及んだ。
最初の犠牲者が出たとき、人々はそれを偶然だと考えた。だが、犠牲者は次第に増え、次第に恐怖が広がっていった。村の狩人たちが次々と返り討ちに遭い、その名を語ることさえ忌避する者が増えていった。
それでも、楸はこの森の奥に入る決心をした。
「悪魔の牙が相手か……面倒だが、引き受けるしかないか」
そう呟いたのは数日前のことだった。他の狩人たちが返り討ちに遭ったからといって、楸がここに来たのは、誰かの復讐を果たすためではない。もっと個人的な、狩人としての
『悪魔の
そう言い切る彼の目には、すでに恐れなど微塵もなかった。
楸は一瞬立ち止まり、耳を澄ませる。遠くで小鳥の声が響き、その奥に聞き慣れぬ低い音が混じる。
「近いな……」
彼は静かに矢を手に取り、弓に番えた。その動作は一切の迷いがなく、いつでも獲物を射抜ける体勢だった。
「さて、あとはお前が姿を見せるだけだ……悪魔の牙」
静かに吐き出された言葉は、森に飲み込まれて消えた。だが、その声には狩人の確信が宿っていた。今度の一撃で、全てを決める――そんな意志が。
----------
同じ頃、誰にも気づかれることなく、森の入り口に二つの人影があった。
彼らは明らかに貴族の子弟、もしくは金で騎士階級を買った類いの男たちだった。その割に従者がいないことが奇妙で、まるで場違いな空気を漂わせていた。
「な、なあ、もっと人手があった方がいいんじゃないのか?」
銀色に輝く新品の板金鎧に身を包んだ二人組のうち、黄色の
青の
「臆病風に吹かれたのか、この弱虫め」
その言葉に、黄色い男はカッとなり、声を張り上げた。
「ち、違うさ! 怖いわけあるもんか。ただ、人数が多い方が早く『悪魔の牙』を見つけられるんじゃないかと思って言っただけだ!」
「ふん、怪しいもんだな」
青の男は冷笑を浮かべながらも、少しだけ考え込むようなそぶりを見せた。
「まあ……確かにもう二、三人いれば探すのは楽になるだろうが」
「だろう? だから、今からでも――」
「いや、駄目だ。」青い男は手を振りながら断言した。「五人も六人もかかって『悪魔の牙』を仕留めたなんて話になったら、俺たちの評価が台無しになる」
「だけど、このままだと獲物に辿り着けないんじゃないかな……?」
黄色い
実際、彼らが着込んでいる板金鎧は戦場でこそ威力を発揮する装備だが、鬱蒼と茂る森の中では場違いそのものだった。彼らは、その金属製の鎧が発する大きな音が、常に周囲を警戒している獣に自分たちの位置を教えてしまっていることに気づいていない。獲物に接近するどころか、むしろ遠ざけてしまう有様だ。
さらに悪いことに、二人は「世慣れた戦士」を演じようとしているのか、
黄色い
「な、なあ、本当に『悪魔の牙』なんているのか? もしかして、ただの作り話ってことはないか?」
その言葉を聞いて、青い
「弱音を吐くな。そんなことを言っていたら、俺たちが笑い者になるぞ」
「でも……この森、どこもかしこも暗いし、何か気味が悪いよ」
「黙れ。」青い
「……そ、そうか?」黄色い
一方、青い
「とにかく、黙って俺についてこい。早く『悪魔の牙』を仕留めて、皆に自慢してやろうじゃないか」
青い
----------
俗に
鬱蒼と茂る樹木が絡み合い、四方を覆い尽くしているその光景は、どこか神秘的でさえある。だが、木々の間から漏れる日の光のおかげで、薄暗いというほどではない。地面は落ち葉に覆われ、苔が点々と生えているが、草はほとんど見られない。
要するに、枝打ちや手入れが一切されていないため、樹木が好き放題に生い茂り、その結果、全体的に薄暗く、下草すら生えない場所だ。もっと率直に言えば、完全に荒れた密林。
それが意味するところは明白だ――ここは「全く管理されていない《荒れ放題》」の森であり、『森の民』が住むという噂話とは正反対の世界だ。この環境では弓を使った狩猟には不向きであり、慎重な観察と経験がなければ足跡を見つけることさえ難しい。
だが、それでもカタルパは足跡を追い続けていた。
カタルパが追う獲物は、どうやら森の逆端からこちらへ向かってきているらしい。つまり、彼の来た方向へ戻る形だ。この程度の状況は狩りではよくある話で、彼は苦笑すらせず淡々と進んでいく。
ここは初めて踏み込む場所ではないが、起伏に富んだ地形と絡み合う木々のせいで、足跡を追うのは一筋縄ではいかない。何度も見失いそうになりながらも、経験に基づく勘で獲物の歩幅や動きを予測し、数歩先の地面に目を凝らす。そして再び痕跡を見つけ出し、慎重に追跡を続ける。
だが、その足跡が突然消えた。
全く予想された位置に、それまで続いていたはずの足跡が見当たらない。
「……消えた?」
カタルパの表情が険しくなる。
この状況が意味することはいくつか考えられる。だが、彼の頭に真っ先に浮かんだのは、「躍りかかる《アタック》」という言葉だった。
「跳躍か……そうだとしたら、まずいな」
彼はつぶやき、素早く周囲を見渡す。
獲物がいきなり跳びかかるような行動に出たなら、これまでの「怠惰な《のっそりした》」動きから一転、予測不能の速度で動き出した可能性がある。その場合、今まで追ってきた足跡から次の位置を割り出そうとしても全く意味を成さない。
だが、跳躍したのなら……何に対して?
カタルパは一瞬だけ考えたが、すぐにその考えを振り払った。
「そんな詮無きことを今考える必要はない」
彼はそう自分に言い聞かせると、足跡を確認する範囲を広げることに集中した。
カタルパの視線は足元から樹上へと動き、さらに前方や側面へと巡る。獲物がどう動いたのかを追うため、彼の全感覚が研ぎ澄まされていく。
「跳躍だとすれば、そう遠くへは行けないはずだ……」
心の中でそう呟きながら、彼は弓を構える手に力を込めた。慎重に一歩ずつ前へ進むたび、わずかな音も聞き逃すまいと耳をそばだてる。
足跡が消えたことが示唆する危険は、まだ見えない形で彼に迫っていた。カタルパはその緊張感を飲み込み、次の痕跡を探し続ける――まるで森全体が静まり返り、彼を見守っているかのようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます