狩人の詩 (2)

森の奥へと歩みを進めるうちに、明らかに周囲の風景が変わり始めていた。

先ほどまで続いていた比較的歩きやすい獣道トレイルは、いつの間にか姿を消し、二人は木々の絡み合う枝葉を掻き分けながら進む羽目になっていた。踏み固められた足場とは違い、落ち葉が厚く積もった地面は柔らかすぎて、脚絆付長靴サバトンでの移動には極めて不向きだった。

そのうえ、足を踏み出すたびに響く微かな音が、不気味さを増幅させていた。


「やっぱり、この辺にはいないんじゃないのか……」

黄色の陣羽織サーコートをまとった少年が、顔に打ち付けてきた小枝を苛立たしげに払いのけながら、前を行く青い陣羽織サーコートの少年に声をかけた。


「……ん。そうかも……いや、でも……」

青い陣羽織サーコートの少年は、まとわりつくシダを払い落としながら答えたが、その声には明らかな迷いが滲んでいた。彼自身も、この状況に疑念を抱き始めていた。だが、後戻りするわけにもいかない――そんな焦りが彼を突き動かしていた。


そのときだった。


突然、何かが茂みから飛び出し、黄色の陣羽織サーコートの少年に躍りかかった。


「うわっ――!」

声を上げる暇もなく、少年はその何物かの質量ではじかれ、地面に叩きつけられた。背中に鈍い痛みが広がり、視界が一瞬揺れる。


「な、なんだ――!」

地べたに倒れ込んだ黄色い陣羽織サーコートの少年は、目の端にそれを捉えた。褐金色ブロンドの鬣を持つ巨大な肉食獣――獅子にも似た姿。しかし、それよりもどこか異様で不吉な威圧感を漂わせていた。


「虎……?

いや、獅子か?」

放心したまま呟く彼の脳裏に、かつて聞いた、鬣を靡かせ襲いかかる、獅子と言う猛獣の存在、そう南方から迷い込んだ獅子が村々に恐怖を撒き散らしたという話がよぎる。

だが、虎や獅子であれば、このような鋭い牙の形状や傷跡の説明には合致しないはずだった――だが、恐怖に支配された彼の思考はそこまで至らなかった。


獣は倒れた黄色い陣羽織サーコートの少年に一瞥もくれず、次の瞬間、青い陣羽織サーコートの少年に向かって飛びかかり、その強靭な前足で押し倒した。


「っ、うわぁ!」

青い陣羽織サーコートの少年は悲鳴を上げながらも必死にもがいたが、獣の圧倒的な力に抑え込まれた。彼の目の前で、獣は口を大きく開く。


そこには、長大な二本の牙があった。


「これが……『悪魔の牙』……」

青い少年は目を見開き、全身が硬直した。その瞬間、彼は悟った。


これが、かの『悪魔の牙』の正体――伝説の猛獣、剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェ



黄色い陣羽織サーコートの少年は、地べたに腰を落とし、足の震えが止まらない。必死に剣を抜き放ち、それを前に突き出してみたものの、その刃は震える手に握られたまま無様に空を切るだけだった。仲間を助けるどころか、自分で立ち上がることすらできない。


「お、おい……誰か……」

彼の声は掠れ、頼りなかった。剣を抜けたこと自体が奇跡に思えるほどの狼狽ぶりだった。


一方、剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェは、そんな怯える黄色い陣羽織サーコートの少年をまるで存在しないかのように無視した。そして、前足で押さえつけた青い少年に牙を振り下ろそうとした。


青い陣羽織サーコートの少年の瞳に映るのは、鋭利な牙の光。そして、その牙が迫る絶望的な光景。


「くっ……やめ――!」

かすれた声が漏れるが、力を失った彼には抵抗する術はない。


その瞬間、全てが静止したように思えた――周囲の音すら消え去り、森はただ、彼らと伝説の猛獣だけの世界となった。



----------



彼が愛用する狩猟用竪弓は、戦争用竪引長弓ロングボウほどの射程を求めていないため、さほど長くはない。それでも、森の中で使うには石弩クロスボウと比べて扱いにくい代物だ。だが、カタルパはあえて竪弓にこだわった。

世間一般では「一発必中」が竪弓使いの美徳だと思われがちだが、彼の信念は違う。いくら動きを予測しても、すべてが計算通りにいくわけではない。外した場合、どう動くか――むしろそれこそが真の技量だと彼は考えていた。


とはいえ、このような鬱蒼とした「森の奥」ともなれば、石弩の扱いやすさに心惹かれるのも事実だった。

「……便利さに流されるようじゃ、まだまだだな」

カタルパは独り言のように呟きながら弓を手に取る。その表情は淡々としていたが、どこか自分を奮い立たせるような気配があった。



突然、遠くで人間の叫び声が響いた。

「ぎゃぁぁぁぁ!」

高く、そして恐怖に満ちた絶叫だった。


カタルパはその瞬間、顔を上げる。その耳に届いたのは、明らかに人間の声――命の危機に瀕した者が発する、絶望の叫びだった。森の奥に鳴り響く音は、一瞬で彼の神経を研ぎ澄ませた。


「……犠牲者か」

短いひと言で状況を結論づけると、カタルパはすぐさま行動を開始する。腰の矢筒から一本の矢を取り出し、素早く弓に番える。そして叫び声が聞こえた方向――ではなく、一見まるで違う明後日の方向へと駆け出した。


一見、逃げ出したようにも見えるその行動。しかし、彼の動きには一片の迷いもなかった。


森の中――特にこのような管理が一切行き届いていない「森の奥」では、聞こえた音がそのまま音源の方向を指すとは限らない。木々が密集するこの場所では、音は反響し、曲がり、時にねじ曲げられ、消されてしまう。遠くの音ほど、音源とは全く逆の方向から聞こえてくることさえある。これが原因で、森に慣れない者は音を頼りに動いて迷い込む。


だが、カタルパにとって、それはもはや本能に近い技術だった。

「右だ……いや、もう少し北寄りか」

彼は音のわずかな遅れや反響の変化を瞬時に分析し、正確な音源を突き止めた。その判断に迷いはない。むしろ、音が鳴るたびに彼の目が鋭さを増し、足取りに一層の確信が宿る。


「こっちだな」

独りごちる声は低く落ち着いていたが、心の内には確かな高揚感が広がっていた。狩人としての自分の技が試される瞬間――それは、彼にとって何にも代えがたい感覚だった。


風を切るような速さで駆け抜けながら、彼は視線を周囲に走らせる。茂みの奥に潜む危険や、足元に隠れた障害物すら瞬時に把握し、体が自然とそれらを避けるように動く。


「絶望の声を上げた者は……まだ間に合うかもしれない」

そんな希望を抱きつつも、カタルパの心には冷静さが漂っていた。彼の鼓動は高鳴っていたが、それが恐怖ではなく、純粋な狩猟本能によるものだと自覚していた。



エストックとも呼ばれる、鎧を貫くことに特化した剣の切っ先に勝るとも劣らない剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェの鋭い牙が、青い陣羽織サーコートの少年の胸元へと突き刺さった。

だが、防御力の高い板金鎧プレートアーマの複雑な曲面が幸いし、牙は胸板から少し外れた位置に滑るように逸れていった。完全に胸板を貫かれることはなかったものの、少年の身体を激痛が走る。まるで火箸を差し込まれたかのような鋭い痛み――その衝撃に、少年は絶叫を上げる間もなく気を失った。


ぐったりと動かなくなった青い少年を、剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェは冷酷な目で見下ろす。その瞳には一瞬のためらいもなかった。獲物が抵抗を失ったと判断すると、獣は次の標的へと視線を移した。


腰を抜かし、地べたに座り込んだ黄色い陣羽織の少年――剣を震える手で自分の前に突き出す彼の姿がそこにあった。

剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェは再び口を大きく開き、その巨大な牙に付いた青い少年の血をペロリと舌で舐め取る。その仕草はまるで儀式のようで、獣の瞳に宿る凶暴さがさらに際立つ。そして――次の瞬間、獣は轟然と咆哮を上げながら黄色い少年に襲いかかった。


「来る――っ!」

黄色い少年は目を見開き、跳びかかってくる獣の動きに反射的に反応する。

手にした鋼の剣を大きく振るい、迫り来る一撃を全力で払った。


鍛え抜かれた剣の刃が、剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェの牙を跳ね返す。

一撃、二撃――その攻撃は止まることなく連続し、鋭い牙と強力な爪が襲いかかる。少年は必死にそれらを払い避けていくが、一撃一撃が重く、次第に腕にしびれが走るのを感じる。鋼の剣は獣の攻撃を確実に受け流してはいるが、巨大な牙を粉砕するには至らない。


立ち上がって反撃する余裕などない。地べたに腰を落としたまま、防戦一方の少年。剣筋は鋭く、訓練を受けた者のものに違いなかった。しかし、その技の見事さが今はどこか滑稽にすら見える。


そう――彼は決して最初の衝撃から立ち直っていたわけではなかった。

剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェの強烈な一撃による恐怖で頭が真っ白になり、放心状態に陥ったがゆえに、身体だけが条件反射で動いているにすぎなかった。


「……くそ、なんでだ……なんで止まらない……!」

少年の心には、冷静な判断力も、恐怖に基づく理性も残っていない。ただ、身体が覚えた動きが獣の攻撃をかろうじて凌いでいるだけだった。


反射だけで攻撃を防ぐその姿は、むしろ必死に自らの命を守ろうとする哀れな小動物のようだった。剣を握る手は震え、その震えの中でさえ、彼は不思議と絶望すら感じる余裕がなかった。


獣の牙が再び閃く――少年は刃を振るい、反射的にそれを払いのけるが、もはや限界は近い。


「……誰か……!」

少年の小さな声は、剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェの咆哮にかき消された。



----------



倒れた男と腰を抜かして尻をついたまま、必死に剣を振り回して獣を退けようとしている少年――その光景を目にした瞬間、カタルパは一切の躊躇ためらいなく弓を引き、矢を放った。


だが、全速力で駆けつけた勢いが狙いを狂わせた。さらに、矢が放たれる直前に足音に気づいたらしい『悪魔の牙』が跳び退いたことで、矢は本来狙っていた顔ではなく右前足に逸れてしまった。

「……しくじったか」

矢が命中する瞬間、カタルパはすでに狙いの誤りを悟っていた。それでも、最悪牽制にはなった。彼は冷静に次の矢を番え、獣の動きを注視する。


『悪魔の牙』――剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェは、痛めた前足を軽く持ち上げて体重を避けると、獰猛な目つきでカタルパを睨みつけた。口を大きく開け、その長大な牙を見せつけるように威嚇する。

その威圧感に、カタルパの唇がわずかに上がった。

「なるほど……これが『悪魔の牙』か」

その名が示す通りの凶悪な猛獣を前にしながら、カタルパの声は驚くほど落ち着いていた。



そんな中、カタルパの目はふと、剣を振り回していた黄色い陣羽織サーコートの少年に向けられた。少年はよろよろと立ち上がり、倒れている仲間のほうへと歩み寄っていく。

その姿を確認したカタルパは、獣から視線を外さないまま静かに命じた。

「今のうちに、怪我をした仲間を連れて逃げろ」


少年は一瞬、戸惑いの表情を見せた。

「し、しかし……」

「今ならまだ助かるかもしれん。ぐずぐずしている暇はないぞ」

カタルパの声には、穏やかさの中に鋭い力が宿っていた。かすかに嘲るような色を帯びたその命令は、拒否する余地すら与えないものだった。


「……わかりました」

少年は渋々といった様子で頷き、多少ふらつきながらも、気を失った仲間を抱え起こした。先ほどまで腰を抜かしていたのが嘘のように、しっかりした足取りで歩き出す。だがその歩みにもどこか迷いが見え隠れしていた。



カタルパは少年たちに目を向けることなく、獣と向き合い続ける。

彼は青い陣羽織サーコートの少年の傷が致命傷ではないことを知らなかった。だが、たとえ知っていたとしても、彼の指示は変わらなかっただろう。

理由は明白だ――彼らのような素人をこの場から排除するのが最善の策だからだ。

カタルパにとって、彼らはただの足手まといであり、獣との戦いにおいてその存在が邪魔でしかないことは明白だった。


黄色い陣羽織の少年はどうか――?

確かに剣捌きは見事だ。訓練を受けた者であることは一目瞭然だ。だが、猛獣を相手取るとなれば、腕前だけでは足りない。経験と度胸――それこそが生死を分ける鍵となる。


「ふん、腕だけは立つようだな」

カタルパは小さく息を吐いた。黄色い少年は猛獣の虚を突こうとしたカタルパの攻撃に即座に気づき、剣を使って剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェの攻撃を防ぎきった。それだけでも大したものだ。しかし、猛獣狩りで求められるのは、それ以上の何か――すなわち冷静な判断力と、極限の状況で恐怖を抑え込む力だった。


「必ず戻ってきます!」

少年の決意に満ちた声が背後から聞こえる。だがカタルパはその言葉に全く耳を貸さなかった。

「戻ってくるかどうかなんて、俺にはどうでもいい」

彼は心の中でそう呟き、次の矢をゆっくりと引き絞った。目の前の獣に全神経を集中させ、確実な一撃を放つために呼吸を整える。

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