アクアリウムの平日と夕焼けの火

 列車を1回乗りついで着いた水族館は扇型の特徴的な建物している。


 僕は時たま思い立てばここにきて水と青の世界の中でただただ魚を眺め癒されていた。

「ちょっと券ば買うてくっけん。」すいている時間帯なのか、入り口には僕らしかいなかった。僕は大人入場券を一枚だけ買うと彼女の処へ

「じゃ、行こうか。」彼女と連れ立って入場口へ行く。

 係員の女性に自分の年間パスポートとさっき買った券を出す。

 係員は周囲を見渡したが彼女の眼には僕以外は誰も見えていないだろう。

「え?あの御一人様ですよね?」やはり係員はそう僕に問うた。

 一人の入場者が年間パスポートと入場券の合わせて2枚、二人分を出してきたのだ。驚くのは当たり前だ。

「いえ。僕と彼女でちゃんと二人です。」そう言って僕は後ろに立っている彼女を掌で指して言う。係員には今この時の僕はくうに誰かを見ている狂い人にしか見えていないだろう。

「なのでそのまましてください。それで大丈夫ですから。」僕はそれを気にせず当たり前のごとくそう言って係員の人に入場券を渡して中に入る。この時の係員の顔は一体どんなものだったのだろう。でもこの時の僕にはそれを確認する気はさらさらなかった。


 全く。完全に。

 だって、僕と彼女の散策はそういうドッキリの様な軽いものじゃないんだから。


「あの。年間パスポート持ってるってことは……」後ろを歩いていた彼女が僕の横に並びながら僕に聞いてくる。

「そ。さっき買ったとは君の分。買わんとダメやろ。」

「!。じゃぁさっきの電車も!」

「そ、当然。やなかとね。」驚く彼女に当たり前でしょと僕は笑っていった。

「すいません。ありがとうございます。」彼女は頭を深く下げてお礼を言ってくれた。

「よかよか。それよりかアレ見てみぃ。」そう言って入り口から入ってすぐ僕が指さしたでかい魚の標本に彼女は手で口を覆って驚いた。

「なんですこの頭デッカチな魚。」

「メガマウスってサメらしい。珍しかサメで昔この近くに打ち上げられとったってさ。しかもメスだとかでさらに珍しかやつらしい。」彼女は標本の正面に回ってしゃがむと色味が抜けて白くなっているメガマウスの顔を真正面から興味深げにじっと眺めて

「かわいい。」と言った。

「愛らしかか?」彼女が口にしたその4文字に僕は即座に疑問を呈す。

「はい。おっきな頭でぬぼっとした顔。そしてちっちゃな眼とばくっと開いた大きな口すごくかわいいです。」僕を見上げてくる彼女は満面の笑みだった。

 順路通りに展示を見て回る。その間彼女は自分がオバケであることを最大限に活用していた。

 僕以外の他人には見えないのをいいことに彼女は森の展示の中に入ったり、ペンギンの群れの中に立ってポーズをとったり、ショーをしているアザラシの横に立って飼育員のまねごとをしたりもしてとても楽しそうで、彼女の顔には心からの笑みがはじけていた。



 順路の中ほどまで来て、イワシのような小さな魚からサメのような大きな魚まで一緒くたにぶち込んで展示してあるまるで海を切り取ったかのような大きな水槽の前に来た時に彼女はその水槽にのまれたのか「おーっ」と感嘆の声を上げた。


 青い光ディープブルーを放つ大水槽を暫くのぞき込んでいた彼女は何かを思いついたらしく、いたずらげに指を一つ立てるとアクリル硝子をスゥッと通り抜けて水槽の中へ入り込む。

 水をひとかきして水槽の中を浮き上がった彼女はそこで目を閉じて手足をスッと延ばして舞うかのようなポーズをとる。ゆっくりと目を開けた彼女は、青冷えの海の中を血色よく可憐に泳いで見せる。そのままスッと水面に登った彼女は手をいっぱいに広げ水底の僕を見下ろして

「私人魚みたいですー。ほらぁ」と笑って、そのまま水槽の魚と一緒に泳ぐようにじゃれ始めた。

「それじゃ最後泡のごたぁに消えるやんか。」彼女には聞こえない僕の小さな言葉。見上げる彼女の人魚という言葉と姿。そこからつながった結末に、少しのさびしさを僕はなぜか覚えた。

 寂しいという感情。

 彼女は幽霊なのだから消えると言うことは成仏につながるのだろうからよいことのはずなのに、

 それが寂しい。

 あってまだ一日もないのに。彼女と僕の関係は紙よりも薄くぺらっぺらだ。

 だのに寂しい

 僕はこの寂しさに漠然とした嫌悪と忌避感を持ち始めていた。


 順路の最後にあるのはイルカショーのプール。それと、国内ではもう片手でも余るほどに数少なくなっているというラッコの居る水槽。


 だけどもその水槽には誰もいなかった。

 いなかった。


 そこには広い展示空間めいっぱいにからを詰め込み殺風景になった水槽だけがあって、その前には供花がたっぷりと乗せられた献花台と彼の遺影、

 それと掲示。

 ラッコが死去した事、物故者への敬意と感謝、最後に重ねての来館者への謝意の言葉が載った掲示があった。


 それを見て、僕は何も言えなかった。

 言葉をどうにかして絞り出そうにも何も出てこない。

 出しようがなく、

 何かに喉を締めあげられた僕は嫌なだんまりを彼女にするしかなかった。


 それはひとえに、彼女と出会って自分の中で少し過敏になってしまっている死への嫌悪とそれからの恐怖に対する忌み心のせいだった。

 もし、もしもだ、ありもせなんだが彼女がオバケじゃなければ僕はラッコへの憐憫の一言くらいあっさりと出せただろうし、彼を弔う心くらいは僕にも沸いたはずだ。

 だども、この時の僕はそれすらも魂が無意識に拒否してしまっていた。

 今思えば、僕はここで人魚に寄せた僕の感情を解したのだろう。死の根本がつながる再会すら望めない一方通行な別離、別れという結果。僕と彼女に否応も無く訪れるであろうそれを嫌い、

 迎えたくも、

 考えたくもなかったのだ。

 一切。何も。

 そう、この時の僕は。


 和々しいものから一転して気まずくなった空気の中で僕が無意識に、ぶしつけに、覗き込んでしまった彼女の顔には当然ながら影がおりてしまっていて、先ほどの血色も飛んで少しくらげな表情だった。

 気づいた彼女の視線と僕の目が真正面からぶつかる。

 彼女の表情は一瞬、驚きになってすぐににっこりと笑った。

「丁度良くイルカのショーがあるみたいです。一緒に見ましょう!ね!」彼女は取れもしないのに僕の手を引く様にしてショープールへ行こうと急かす。

 ラッコの死に直面した心の動揺。それを隠すためだろう、芸をするイルカの傍で彼女は明るく振る舞っていた。

 だけどもそれは、さっきまでの日向の様な明るさとは違って、強がりだけの明るさだった。

 このショーの間も彼女は僕の横や前で笑っていたのだろうけれど、そこらへんの記憶は僕には全くない。本当にだ。

 ここらあたりの僕の記憶領域には、死去したラッコに自分を重ねたろう彼女の少し悲しそうなあの、あそこでのぞき込んでしまった顔だけがただ焼き付いて残っている。




 そんな動作不良な僕のメモリが昨日の最後に残しているのは水族館の外に出た後に見た夕焼けの赤だった。


 真っ赤な、全てを焼けおとすような火の色をした丸い球の夕日。


 それが湾の海青をなにも見えない真っ黒色に変えながら、僕の手の届かない向こうに沈んで行っていたところだった。

 僕の少し前で夕日の紅の中にいる彼女が髪を耳にかき上げながら振り返って

「私、いっちゃわないといけないみたいです」と彼女はいきなり僕に切り出した。

「なんだよいきなり。それなんでわかるんだよ。」

「あれか。ラッコのせいか?僕が此処に連れて来たけんか?」いきなり現実に現れて来た別れの状況に僕の声は荒くなる。

「いいえ、関係ないです。あの時のあの顔。やっぱり心配してくれてたんですね。優しいです。貴方…。本当に。」逆光の彼女はさびしげにも笑っていた。


「行くって…お前、行くって!どこにだよ!」この時の僕は彼女に何処に行くのかと尋ねながら、答えを聞きたくはなかった。聞いてしまえば今生の別れになってしまうと感じたから。


 彼女もこれを切りだしたら僕が錯乱したかのように声を荒らげることはわかっていたのだろう。僕の粗暴な声になんら驚くことは無く、少し間を取ったあとに母のような優し気な顔と声で僕に言って聞かせる様に彼女は言葉を紡ぐ。

「何処かとかはわかりません。でもなんか、なんというかここからはいなくなってしまう。そんな予感がしています。」ほらと彼女が見せた手は透けるどころか消え始めていた。

 その手の透け様はドアや水槽をすり抜けていたときの様な透け方とは違って、まるで線香花火の火の粉が散る様にちらちらと彼女の手は夕日色に崩れて消え続けていた。

「ね。」

「なぁ…」僕は震える声で彼女に乞おうとしていた。


「ダメです。それは。今のこれでも奇跡のような時間なんですから。」僕が、何を彼女にこいねがうのか彼女はわかっていたのだろう。彼女は消えかけている左手の人差し指を一本だけ僕の顔の前に立てて僕のその言霊を遮った。それだけで僕はもう何も言えなくなっていた。


 もしかしたらこの時の僕は、言葉も出せぬほどに強く深く泣いていたのかもしれない。

 対して彼女は朝日のような笑顔で、


 楽しかったです。さようなら


 と言うと躰を全て金の粉に変え、海風にばぁっと乗って湾を染める夕焼け全てに舞い散った。

 涙なしに僕の前から消えていった。

 何も残さないで。


 二人いた夕暮れの中、垂れた涙はたった僕一人分だけだった。


 これが熱に浮かされた明晰夢の様な、現実感の無い昨日の全てだ。

 だけどもそれは深く僕の心に刻まれていて。

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