『三つ葉、手、飴』
「じゃあな、ハナ」
「うん。バイバイおとぉちゃん」
学童疎開の見送りでごった返す駅のホーム。
運良く窓際の席を取れた娘に、軍服を来た父親が別れを告げていた。
彼もまた、戦地へ向かうため1時間後に家を出る。
娘とはしばらく、もしかすれば一生会えないだろう。
もんぺを着た母親も連れ添い、夫の横でしくしく泣いていた。
「そうだおとぉちゃん。これ」
「ん?」
娘が窓から腕を伸ばして渡してくれたのは、三つ葉のシロツメクサだった。
摘んでから時間が経つのか、葉が萎れている。
おそらくサプライズの為に、家から電車に乗るまでの間、ずっと隠し持っていたのだろう。
少し前までは「イヤイヤ!」と不機嫌を毛ほども隠さず暴れていたのに、いつの間に我慢を覚えたのか。
「こりぇ、こーうんのおまもり、だよ。」
「幸運?ははっ、ハナ、それは四つ葉のシロツメクサの話だよ。」
「え、そーなの?」
間違えたことがよほど悲しかったのか、娘は口をへの時にして、目に涙を貯めた。
しまった、娘は1度泣き始めると2,30分は収まらない。
父親は慌てて話し掛けた。
「大丈夫!四つ葉のシロツメクサは、案外そこらに生えてるもんさ。次会う時までに、見つけてくれれば良い。」
「……でもおとぉちゃん、せんじょー、いっちゃうんでしょ?あぶないとこ。」
心配そうな娘に見つめられ、父親は思わず言葉に詰まる。
軍がそこかしこで見張っているので口には出せないが、日本の戦況は絶望的だ。
戦死はまだしも、補給が途絶えてジャングルの中で餓死する可能性すらある。
娘と五体満足で会える自信は無い。
それでも。
「大丈夫!おとぉちゃんは強いんだ!メリケンをばったばったと薙ぎ倒して、勲章付けて帰ってくるさ。」
「え?ほんと?」
「本当さ!母さんのことも学生時代よく守ってあげたもんさ。な?」
「え、ええ。そうよ。おとぉちゃんは実は強いの。だから、絶対に、帰ってくるわ。」
父親に口裏を合わせて、母親も笑顔で娘に念を押す。
だが言葉の切れ目に震える声は、彼女が精一杯不安を押し殺しているのを示していた。
「そうなんだ!じゃあおとぉちゃん。かえってきたら、よつばのシロロメクサ、あげるね。」
「はは。シロツメクサ、な。楽しみにしてる。」
ピィーー!と鋭い警笛が鳴る。
機関車が煙を吹き上げ、車輪が回り出した。
本当ならばホームの端まで追走したい所だが、すし詰めのホームでは叶わない。
その分、父親は声を張り、遠ざかっていく娘に呼び掛け続けた。
「またな!ハナ!元気にやるんだぞぉ!」
「おとぉちゃんも!やくそくだからね!」
窓から手を振る娘の姿が見えなくなるまで、父親は声を上げ続けていた。
1年後。
父親は同じホームで電車から降りた。
東南アジアの戦場は地獄だった。
食糧は底をつき、野生の蛇や蟻を食って飢えを凌ぐ。
食中毒で仲間が死ぬ。
仕掛けられた地雷を踏んで仲間が死ぬ。
自分の銃剣で喉をかききって仲間が死ぬ。
一人また一人と亡骸となり、部隊で生き残れたのは彼だけだった。
その地獄でも生きることを諦めなかったのは、涙を堪える妻と三つ葉を差し出す娘の姿がずっと脳裏にあったからだ。
出迎えの家族で一杯のホームから、父親は必死で妻と娘の姿を探す。
そしてついに、奥の方でこちらを見つめる妻を見つけた。
「マツ!」
父親は思わず叫んで駆け寄った。
しかし人を押し退け妻に近づいていくと、その違和感に気づく。
久々に会えたというのに、妻には一切笑顔が無い。
いやむしろ、自分を見送る時よりも悲痛な顔をしている。
そしてもう一つの違和感。
隣に、娘の姿が無い。
「マツ、ハナは……」
妻の所に辿り着くと同時に聞いた父親は、妻が抱えているものに気付いて絶句する。
それは黒の額縁に入った、娘の遺影だった。
3日後。父親と母親は郊外の広い原っぱへ来ていた。
辺りには抉られたような大きな穴がいくつも空いている。
娘はこの原っぱで遊んでいる最中、敵機の爆撃に会って死亡した。
子供達が遊んでいる中の突然の攻撃で、生き残れたのはごく僅か。
爆発四散した遺体が混在し、誰のものか分からないか肉や骨があたり一面に転がる地獄絵図だったそうだ。
娘の遺体は特定できず、遺物も疎開に持っていった必要最低限の備品しか無かった。
せめて何か1つでも娘のいた証拠が欲しい。
それを探しに2人はこの場所まで来ていた。
父親は軍手を着け、爆発で吹き飛んだ土砂の山を掻き分ける。
服の切れ端、水筒、血染めのベーゴマ、皮、骨……。
子供達の痕跡は点々と出てくるが、未だに娘の物とはっきり分かるものは出てこない。
諦めかけたその時、他の場所を探していた母親が駆け寄ってきた。
「あなた!これ!」
息を切らしながら差し出されたのは、ドロップスの缶だった。
娯楽の少ない疎開生活で退屈しないよう、疎開先の先生が渡してくれたのだろう。
鈍色のアルミの底面に『ハナ』と名前が刻まれていた。
受け取った缶はとても軽い。
育ち盛りな上に食糧も少ない環境だ。我慢できずにバクバク食べてしまったに違いない。
だが、缶を振るとカサカサ、と音がした。
明らかにあめ玉の転がる音ではない。
何だろう、と思い母親を見たが、彼女も不思議そうな目でこちらを見ていた。心当たりは無いらしい。
父親は缶の蓋を開け、逆さまにして中身を取り出す。
フサッと左手に落ちてきた物を見た瞬間、父親の胸をドンと重い感動が打った。
「あ、ああ……っ!」
左手にちょん、と乗ったのは、四つ葉のシロツメクサだった。
あの日ホームで約束した後、娘はずっと探してくれていたのだ。
父親が帰ってくることを微塵も疑わずに。
大好きな家族とまた幸せに暮らせるようにと願いながら。
四つ葉のシロツメクサを通して、娘の手のひらの体温が伝わってくる。
その温かさに、父親は涙で顔を歪ませながら膝から崩れ落ちた。
母親も口を両手で押さえて嗚咽する。
遺影に写る娘の笑顔は、四つ葉を渡せたことを喜んでいるように見えた。
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