第18話『作曲と心の変化』


 その日、結愛はいつものように登校したが、心の中は何かがざわついていた。

 至高の演奏を完成させるために、作曲を始めたものの、その道のりは決して平坦ではない。結愛は教室での授業中、無意識にペンを回しながらも、心の中でメロディを探していた。


 放課後、結愛は急いで自分の持ち物をまとめた。


「沙月、じゃあね!」

「うん、じゃあね!」


 校舎の一角にある静かな空き教室へ向かった。その教室は、あまり人が来ない場所で、いつも落ち着いて音楽に没頭できる場所だった。

 ピアノの前に座り、結愛は目を閉じた。


 頭の中で浮かんでは消えるメロディ。何度も繰り返し演奏してみるが、なかなか納得のいく音楽が生まれない。音符が、まるで手に取れないような感覚に陥っていた。


 そのとき、ドアが静かに開き、奏斗が顔を覗かせた。


「神織、調子はどうだ?」


 奏斗の声はいつもと変わらず、優しく響く。

 それでも結愛はその声に少しだけ安堵を覚え、ふと顔を上げた。


「長谷川くん、どうしてここに?」


 結愛は驚きながらも微笑み、奏斗を迎え入れる。


「少しでも役に立ちたいんだ」

 奏斗は少し照れくさそうに、でも真剣な表情で言った。結愛が悩んでいることに気づいていたのだろう。彼の目は優しさと気配りで満ちている。


「うん、少し行き詰まってて……」


 結愛は肩をすくめながら答えた。その言葉に、奏斗は少し考え込むようにしてから、ゆっくりと結愛の横に座った。


「どうしたら、あの『至高の演奏』を完成させることができるんだろう……」


 結愛は自分の心の中にある思いを吐き出すように言った。奏斗はしばらく黙って、その言葉を受け止めていた。


「うーん……」


 奏斗は少し考えてから、静かに言った。


「神織が作る音楽は、きっと誰かの心に響くものだと思う。でも、無理に何かを作らなくても、結愛らしい音楽でいいんじゃないか?」


 その言葉に、結愛は少し驚いたが、同時に胸が温かくなるのを感じた。


「長谷川くん……」


 結愛は思わず、その言葉に顔を上げた。

 その瞬間、奏斗が一歩前に出て、優しく結愛の頬に触れた。

「なあ、神織」

「な、なあに?」

「神織の事、結愛って名前を呼んでいいか?」

 奏斗が少し照れながらも、真剣な目で見つめて言った。

 その瞬間、結愛の心臓が跳ね上がった。言葉を出すのも遅れるほど、奏斗の言葉とその仕草が、まるで時間が止まったかのように彼女の中で響いた。


「……うん」


 結愛は少し顔を赤らめながら、静かに答えた。その返事を聞いた奏斗は、少し安心したように微笑む。


「結愛……」


 奏斗がその名前を口にした瞬間、結愛の胸の奥で何かが弾けたような感覚が広がった。それは言葉では表せない、温かくて優しくて、どこか切ない感情だった。

 その一瞬、結愛の心は急に過去の記憶に引き寄せられる。小学校の頃、自分が初めて作曲に挑戦した日のことを思い出す。あの時も、音符を並べるのがうまくいかず、何度も悩んでいた。それでも、どうしても音楽が表現したかった。音楽が、自分を伝える手段だったから。


「そうだ……」


 結愛はふと、昔のことを思い出しながら、無意識に声を漏らした。

「私、小学校の頃にも作曲してたんだ……」

 奏斗はその言葉を聞いて、少し驚きながらも、にっこりと笑った。

「それは、すげぇな」

「うん。あの頃は、まだ上手くできなかったけど、今ならもっと素敵な曲が作れる気がする」

 結愛は少し自信を持ち始め、前向きな気持ちになった。その瞬間、心の中で何かがスッと軽くなったような気がした。

「ありがとう、長谷川くん」

「奏斗でいい」

「か、奏斗」

「はい、結愛」


 結愛はドキドキしながら、再びピアノの前に座った。

 さあ、奏でよう!



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