柳さんによると8

 風の強い晩だった。

 その日は尾形さんが釣りに来ていたということは、金曜日だったのだろう。

 柳さんが廃墟に帰宅したのは十時。近所の公園で缶ビールをさきいかで一杯やり、ほろよい気分で戻ってきたところだった。

 季節は秋から冬に差し掛かり、外にいるのが段々と辛くなってくる時期だった。

 そのため早々と廃墟に戻り、タオルケットにくるまって眠ろうと考えていた。

 夏、秋に多かった肝試しの若者も最近はほとんど見なくなり、穏やかに過ごせる日々が続いていた。


 尾形さんは相変わらず、ヌシを釣るといって、竿をかついでやってくる。眠れないときは庭に出て、尾形さんが釣りをするのを眺めていようと考えていた。

 廃墟のある高台に差し掛かってから、実際に建物に入るまでにはかなり時間がかかる。

 山道に沿って作られた住宅地を自転車を押してあがり、かなり山の方まで来たところで、渓流の上にかかる橋を渡った。

 その後、少し坂を下り、ぐるりと駐車場を回って廃墟に着く。

 橋を渡るとあたり一帯は寂しくなり、人気もほとんどなくなる。その日も、橋を渡ってから、廃墟に至るまでは人を一人も見なかった。

 廃墟に到着してから、のどが渇いた柳さんは自分の部屋に水がないことを思い出した。廃墟は電気も水道も止まっており、水道水で我慢することもできない。

 自転車に乗って、自動販売機のあるところまで戻ろうとしたとき、ネコが駐車場に集まってくるのが見えた。


 〇州極楽ホテルの敷地内には自動販売機がない。そのため駐車場から公道に出て、しばらく歩かなければいけないのだという。

 東西に走る太い道路までいくと、自動販売機があることを柳さんは知っていた。


 自動販売機で水を買って、敷地内に戻ろうとしたところで、柳さんは駐車場から走り去る男を目撃している。

 黒のジャージに、黒のパーカーを着ており、黒の帽子がいかにも怪しかった。

 年齢的には三十代前半か、後半で、口元の無精ひげとやけに力のある目が印象に残っていたそうだ。

 慌てた様子で夜の闇に消えていく彼はどうも落ち着かない様子だったという。

 廃墟に戻ると、玄関口のところで、例の娼婦がネコにエサをやっている。先ほどの男は、あるいはあの女の今夜の客だったのかもしれない。


「いっかいせえぇ」

 という気味の悪い客引きを受けたくなかったので、柳さんは娼婦に近づかないよう、玄関を迂回して、宴会場の方から廃墟に入った。


「カーン、カーン」

 以前はネコが釘うちにされていると考えた金属音も今ではほとんど気にならない。

 尾形さんが退屈しのぎにライターを柵に打ち付ける音で、この音がするからには、彼はすでに来ているのだろう。

 今日は疲れていたし、強い風が老体に染みる。尾形さんと話せば、また長いこと屋外でじっとしていなければいけない。

 今日は挨拶も抜きに部屋に戻ろうと思い、ロビーから古いゲームセンターを通り過ぎた。

「おっとっと……」

 柳さんが何かにつまずいて転んだのはそのときだった。

 暗くて足元は悪いし、白内障を患っている柳さんはもともと視界の右半分が頼りない。

「もう……なんだよ」

 誰かがゲーム機を動かしたかと思い、悪態をつきながら起き上がる。

 つま先に妙な感触が残っている。

 柳さんは起き上がって、下に落ちていたものの正体を確かめた。


「えっ……」


 柳さんは思わず仰け反った。

 暗くてよく分からないが、人の形をしていた。

 ぱちぱちと大袈裟に瞬きをして、それが見間違いでないことを確かめた。

 触れてみると手のひら一面に長い髪の毛があたった。その感触で柳さんはそれが人形ではないことを悟った。油分を含み手のひらに張り付くような感触があった。


「これ! 大丈夫かいなぁ」

 一生懸命に呼びかける声が自分でも滑稽に感じられたという。

 柳さんは女性の身体を揺すった。

 女性の身体は体型よりもはるかに重く感じた。

「これ! お嬢さん!!」

 柳さんは懐中電灯を取り出すと、光を女性にあててみた。

「うわあああああ……」

 柳さんは尻もちをついた。

 苦悶の表情が女性の顔に張り付いていた。

 死んでいることは最早疑いようもなかった。

 自殺か、他殺か、首を絞められたことが死因になったようで、首の周りに激しく引っ掻いた後が残っている。

 服装はかなり乱れており、シャツの前を無理やり外されたようになっている。スカートはめくれ上がり、力なく開いた太ももの内側にはポツポツと血が飛び散っていた。

「お、尾形さん!!!」

 柳さんはエントランスを走って宴会場に向かうと、割り落とされた窓から庭に出た。

「尾形さん!!」

「どうしたんです?」

 尾形さんは竿をあげながら言った。

「し、死体が……人が殺されてる!!」

「まさか」

「ほ、本当だよ。誰かに犯されたみたいなんだ」

 そうじっくり眺めたわけではないが、それが強姦殺人だとはハッキリわかった。

 あるいはネクロフィリアと呼ばれる異常者が、首つり自殺した女性の遺体を下ろして、犯したのかもしれないが、柳さんはそういう可能性は考えなかったようだ。

「どこで?」

「そこのエントランスのところだよ」

「エントランスならさっき私も通りましたよ。別に死体なんてありませんでした」

 尾形さんは面倒くさそうに顔をしかめた。

「現に見たんだよ」

「また酔っ払ってたんじゃないですか? どれくらい飲んでたんです?」

「ううん、そう飲んでない。一緒に来てくれないか」

 柳さんは物凄い剣幕で首を振った。

「まあ、良いですけど……」

 尾形さんは竿をおいて、柳さんのもとに歩み寄った。

 明らかに気乗りしない様子で、動きも緩慢だった。

 柳さんの表情からそれが冗談や悪ふざけではないと察したのかもしれないが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉がある。

 いくら、廃墟に出入りしていると言っても、殺人など現実離れしすぎて、あまり真面目に取り合う気になれなかったのかもしれない。

「どこです? 死体は」

「こっちだ、こっち」

 柳さんは尾形さんを連れてゲームセンターの方に向かった。

 そこで柳さんは懐中電灯で床を照らし始めた。

「ここです?」

「そうだ」

「さっき僕も通りましたよ。でも、死体なんてなかった」

「俺が通ったときにはあったんだよ。実際、俺は駐車場から怪しい男が出るのを見たんだ」

「それでどこですか?」


「おかしいな……さっきまでここにあったはずなんだが……」


 柳さんは懐中電灯を大きく振った。闇を払うようにして、死体を探す。

「酔っ払い過ぎたんじゃないですか? それか、幽霊でも見たんじゃ……」

 尾形さんはいよいよ嫌な顔をする。

「本当だよ。ちょっとよく探してみてくれ。俺は目が悪いんだ」

 柳さんは懐中電灯を尾形さんに渡した。

「さっきから一緒に見てますけど、どこにも死体なんてありませんよ」


 ゲームセンターと言っても、エントランスの一画に機体を置いただけで、そう広いことはない。

 当時は遊びやすいように並べられていた機体は、侵入者たちが動かしたために、散らかっており、死体が隠れる隙間なんかない。雑然と伸びた電源コードを踏まないように二人は歩いた。

「何もないじゃないですか」


 結局、隙間という隙間を練り歩いて、死体を探したがどこにもなかった。


「そんなはずはない。俺はその死体につまずいたんだ。たしかにこの手で触れてみた」

「そんなこと言われたって、ないものはないんですから」

 尾形さんは顔をしかめた。

 常識ある大人とすれば本当に死体があれば、蘇生を試みるなり、警察に通報するなり、なんらかの対処をせざるを得ない。

 それがどれだけ重大な出来事かは尾形さんにも分かる。

 しかし、死体がなければ、どうにも動きようがなかった。

 とはいえ、ことが重大なだけに聞き流すわけにもいかない。

 何重にも嫌な気分だ。

「おかしいな……おかしいな……」

「柳さん、薬を飲みそびれたりとか、そんなことはないんです?」

「俺は精神病患者なんかじゃないよ!」

 柳さんが食ってかかるように言った。

「そうとは言ってませんよ。ただ、お年がお年ですから、体調が悪くなると何かと差しさわりがあるかと思って聞いたんです」

 私には尾形さんがこのような言い方をした理由が分かる気がする。

 いくら尾形さんと柳さんが馬が合うと言っても、二人は親友でもなければ、家族のように信頼しあっているわけでもない。

 ただ気味の悪い廃墟で、恐怖を紛らわすための話し相手というだけだ。

 ホームレスの柳さんと、普通に仕事をして、家庭を持って、金曜日の晩に趣味で廃墟に来る尾形さんでははっきり言って住む世界が違う。

 こういう事態になると急に一緒にいるのが不安になってくるのかもしれない。


「よし、分かった。じゃあ、例の娼婦にも聞いてみよう」

 柳さんはそう言うと玄関から外に出始めた。

 柳さんの方も引き下がれなくなったようだ。

「例の娼婦もいたんですか?」

 尾形さんは顔をしかめる。

「さっき、玄関の前でネコにエサをやっていた」

「ふーん、それで彼女に何を聞くんです?」

「怪しい男が走り去ったことだよ。多分、彼女は廃墟から男が走り去るのを見ている」

 柳さんが歩き出すので、仕方なく尾形さんはその後ろを歩いた。

 尾形さんは庭に置いてきた竿が気になるのか、しきりに宴会場の方を気にしていたという。


 玄関から外に出てみたが、すでに女性の姿はどこにもなかった。


 さっきまではあれだけ集まっていたネコもいなくなって、だだっぴろい玄関から、だだっぴろい駐車場が見渡せる。

 そのどこにも人影はなかった。

「おかしいな……さっきまでここにいたはずなんだが……」

「例の娼婦が殺されたんじゃないんですか?」

 尾形さんは話が分かりかねる様子だった。

「違う。例の娼婦は玄関の前にいたんだよ」

「それは柳さんが死体を見る前? 後?」

「死体を見る前だけど、怪しい男が駐車場から走り去ったあとだよ。怪しい男が女性を殺して犯したとしたら、その後に見た娼婦が殺されることは不可能だろ」

「うーん、まあ推測としては一貫してますけど……」

 尾形さんはなんとか時系列を把握したようだ。

 怪しい男が走り去る。例の娼婦がネコにエサをやっているのを見かける。廃墟の中で強姦殺人死体を見つける。この順番なら確かに、男が犯人だと思うだろうし、犯人が走り去ったあとに娼婦を見かけたのだから、例の娼婦が殺されたようには思えない。

「まあ、本当に死体があって、それがその男によって殺されたとしたらの話ですけど……」

 尾形さんは困り果てていた。

「そもそも例の娼婦って本当に生きてるんです?」

「この前、生身の人間だって言ったのは尾形さんだろう?」


「それはあくまで合理的に考えての話ですよ。ぼくたちは真夜中にこんな廃墟にいるんですよ? 死体が見つかったり、死体が消えたりした後じゃ、何も信じられませんよ。もしかしたら、強姦殺人死体と、例の娼婦は同一人物なのかも。柳さんは例の娼婦の霊を見たんですよ」

「ネコにエサをあげてる姿かい? それとも死体が霊って言いたいわけ?」

「どっちもですよ」

「じゃあ、駐車場から走り去る男はどう説明するんだ? 強姦殺人が今起こったことじゃない。どっちも遠い昔にあった事件だって言うなら、あの怪しい男は何者なんだ?」

「さあ、まったく無関係の人かもしれない。道に迷ってこの廃墟に行きついた人かもしれないし、もしかしたら、その怪しい男も幽霊なのかも」

「あの男まで幽霊なのかい」

 柳さんは笑った。こうなるとどっちが真面目に話をしているのか分からない。

「幽霊が幽霊を強姦して殺したんですよ。それで男の幽霊は怖くなって走り去った。殺された幽霊は無事、生き返って立ち去った。幽霊が殺されれば生き返ると相場が決まってますからね」

 尾形さんの冗談が柳さんは馬鹿にされたように感じたという。


「俺は本当に見たんだよ!! 見間違いじゃない。確かにこの手で触れた。女の長い髪の毛も、妙に強張った体もまだ感触が残ってる」

 柳さんは必死に訴えた。

「分かりました、分かりました。でも、こう暗いんじゃ探しようがありませんよ。明日の朝、明るくなってから探しませんか?」

 尾形さんは面倒になって言った。

「そ、そうだね」

 このまま興奮状態の柳さんの相手をしていたくなかったのかもしれない。明日になったら多少は冷静になって、現実的に考えられるようになるだろう。

 実際、尾形さんとしても今日はもう釣りを続ける気分にはなれなかったはずだ。

「ただし、死体が見つからなかったら、金輪際この話はなしですよ。柳さんももうこんなところに住まない方がいいかもしれない」

「あんたはどうなんだ」

「僕は死体なんか見てませんから。よほどおかしなことが起きない限りは頑張ろうと思いますけど……」

 二人は庭に戻った。

 尾形さんが道具の片づけをする間、柳さんはその後姿をぼんやりと見ている。

「もし、柳さんがほんとうに死体を見たとしましょう」

 尾形さんは急に真面目な表情になった。

「ぼくはつい一時間前にエントランスを通って、庭に出ている。そのときには死体がなかった。柳さんがそこのゲームコーナーで死体につまずいたのは何時ごろなんです?」

「十一時半くらいだ」

「そして、ぼくにそれを知らせに来た。ぼくたちがゲームコーナーに戻ったのは何分後くらいでしたか?」

「十分くらいかな? 尾形さんがぐずぐずしてたから」

「からかわれていると思ったんですもん。じゃあ、整理しましょう。十一時に僕が釣りに来たあと、怪しい男は廃墟に忍び込んで女を強姦した。女の方こそどうしてこんなところにいたんだっていう話ですけど」

「それはいくらか説明がつくだろう。犯人と面識があったのかもしれない」

 柳さんは言った。

「男は三十分の間に、女を殺して、女の身体を楽しんだあと、駐車場から走り去った。そして、柳さんがその後すぐに死体を発見した」

「三十分あれば人を殺せる」

「せっかく強姦殺人なんて大胆なことをやっても、三十分も楽しめないんじゃ釣り合いが取れませんけどね」

「まぜっかえすようなことを言わないでくれ。実際に可能かどうかの話だ」

「僕は死体を見てないんですもの。ちょっとくらいからかわないとやってられませんよ」

「とにかく。三十分で人を殺して、駐車場から走り去った。その後に俺がここに戻ってきて、死体を発見した」

「で、僕に知らせに来て、二人で死体まで戻るのに十分。その十分の間に、死体はどこへ消えたんです?」

「十分あればどこかへ隠せないことはない」

「駐車場から走り去った男が、慌てて戻ってきたんですか?」

「十分あれば不可能じゃない。そう広い駐車場じゃないからね」

 尾形さんはそれが時間的に可能かどうかを検証しようとした。

 二人はこういったやり取りをその後何度も繰り返したという。

 そのため、記憶が強化されて、その日の出来事に関しては詳しい時間まで記憶していた。

 ただ、何度も繰り返したということは、裏を返せば、時間的な再現性に自信が持てなかったのだろう。

 実際に、駐車場から廃墟まで走って見たり、尾形さんを呼びに行って戻ってくるまでの時間を測ってみたりしたのかどうかは知らない。

 ただすべてがスッキリと納得できる状況で、それがあり得ると判断できたのなら、こんなやり取りを何度も繰りかえすことはないはずだ。

 尾形さんは釣り道具を片付けてバッグを担ぐと、駐車場の端に止めた車にそれを積み込んだ。

「それで、明日は何時からにしましょう?」

「九時でどうかな。それくらいにはもう日もあがってるだろう」

「分かりました。柳さんはどうするんです?」

「どうするとは?」

「こんなことがあったのに、今日もあそこで眠るんです?」

「俺は他に泊るところなんかないから」

「ビジネスホテルに泊まったら良いでしょう」

「そんな金なんかないよ。どっちみち、あそこが俺の家だから」

 柳さんはそう言って廃墟を指さした。

「そうですか。じゃあ、九時になったらまた来ますんで」

「すまないね……」

 柳さんは申し訳なさそうに言った。

「構いませんよ。ぼくもハッキリ無かったって思えた方が気持ちがいいんで」

「そうか、じゃあ、また明日」

 柳さんは尾形さんが車を発進させ、駐車場から出て行くのを見送ってから、自分の部屋に戻った。

 柳さんは女の苦悶に固まった表情をはっきりと思い出すことができたし、手のひらに広がる油分を含んだ髪の感触もいまだに残っていた。

 悔しいのは自分を精神病患者のごとく扱われたことだが、死体が見つからなかった以上、それも仕方のないことかもしれない。

 柳さんは部屋に戻るとタオルケットにくるまって眠ろうとした。

 目を閉じると、自分の意識がこの廃墟全体に拡散していくような気がした。睡眠時のまどろみの最中にはこういう感覚を覚えるものだ。

 廃墟を包み込むようなそれでいて内側にいるのがハッキリと理解できるような不思議な光景を思い描く。


 もしかしたら、この建物のどこかに、まだ死体があるのかもしれない。

 それ以外、どこへ消えるというのか?

 一部屋、一部屋丹念に探せば見つかるかもしれない。

 柳さんは頭を振った。

 消えた死体を探して、この廃墟を一部屋、一部屋探して歩く?

 それこそ頭がおかしいじゃないか。

 そんなことを考えているうちに眠りについていた。

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